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2019-09

えなりかずきの少年法不要論と「失われた子供時代」

えなりかずきがビートたけしの番組でした発言がネットで話題になっている。
内容自体は平凡でまっすぐで素直に感情的な少年法廃止論だ。
しかし。
えなりかずきが言うと、痛い。


彼は子供時代、特に思春期を持たずに成長した。
子役として活躍している子供は、体は子供でも子供である事を許されない。
大人並みの責任感を持たねばならない。
(実際に大人並みに責任をとれるかどうかとは別に、心構えの問題だ


「自分は子供の時から大人と同様に振る舞うことができた」
それはえなりかずきの誇りなのだろう。
と同時に、後悔している自分を無理に押し殺す、心の悲鳴にも聞こえる。


子供が子供でいられない。
これは紛れもない悲劇だ。
えなりかずきは6歳で「渡る世間は鬼ばかり」に出ている。
言わずと知れた嫁姑戦争のドラマだ。
普通の家庭の6歳児がこのドラマを見ていたとしたら、チャンネルを変える親も多いだろう。
よしんば見ていても、姑の心情など理解しないまま「オトナの世界」を楽しむだけで終わる。
しかし、子役として仕事をしているのなら、話は別だ。
ちゃんとドラマの筋を理解しなくてはならない。
あのドラマに描かれた人の業を6歳児の眼に焼き付けることになる。

そんな事をしていれば、あっという間に子供は「小さな大人」になってしまう。
簡単に、でも自然に、でもない。
痛みを伴う努力を必要とする変化だ。



人は自分の受けた痛みには意味を見出したい生き物だ。
「あの辛い体験は私を成長させた、だから今の私がある」
誰だってそう信じたい。

えなりかずきもそうだったのだろう。
6歳で大人の世界に足を踏み出した。
必死で努力して、「小さな大人」として大人の世界を泳ぎきった。
自分には泳ぎきる事ができていた。
その経験は自分を成長させた。
そう信じなければ、生きていけない。


自分が必死に苦労してやり遂げた事を認められたい。
人としてあまりに当たり前な欲望。

「子供が大人並みの振る舞いをする事」

それに価値がなくてはならない。

だから、「子供は子供レベルの責任の取り方でいいよ」という少年法が許せない。
許したくない。




えなりかずきの激しい口調に、私は「子供でいられなかった」彼の心の痛みを感じた。
彼も「子供だから仕方ないよ」とか「子供の責任は親がとるものよ」とか、誰かに言ってほしかったのではないだろうか。

俳優の演説だ、もちろん本音の吐露ばかりではないだろう。
それにしても、あの晩の口調は激しすぎた。
他の番組のコメントを見る限り、えなりかずきはクレバーで、こんな過激な事を言う人物ではない。



子供は子供でいい。
未熟で当たり前で、その未熟さは周囲の大人がカバーするべきものだし、責めを負うときも周囲の大人も分担するべきだ。


何歳まで「子供」かは価値観の問題で、現行の20歳以外の答えもあるだろう。
少年法の守りの壁が厚すぎるという批判もあろう。
刑罰や報道の在り方については議論が必要だし、私も現行法が100点満点とは思わない。
しかし、少年法の存在自体を否定するのは、過激過ぎる。




そして、今回のえなりかずきの発言で我々が考えるべきは「少年法不要論」の是非ではない、と私は考えている。
「子供時代を奪われた子供」の傷の深さを、我々大人は深く反省しなくてはならない。

「子供は未熟だ」
「子供の未熟さをカバーするのは大人の義務だ」
こんな当たり前の事を理解できなくなるほどの傷。






大人として、1人の人間から子供時代を奪うことについてよく考えるべきだ。


そのドラマは、その娯楽は、1人の人間の二度と帰らぬ子供時代を奪ってまで作らなければなりませんか?

エルサからのメッセージ@アナ雪

クリスマスである。
クリスマスと言えば、ホワイトクリスマス、つまり雪だ。
そしてクリスマスには恋人たちが街にあふれる。
クリスマスは愛のイベントでもある。
2014年、雪、愛、と言えばもう答えは決まっている。

アナと雪の女王、通称「アナ雪」。
言わずと知れた今年の大ヒット映画である。
グラフィックの美麗さ、音楽の壮大さ、キャラクターの多彩さ。
アナ雪の魅力は枚挙に暇がない。
しかし、アナ雪はそんな「誰にでも楽しいファンタジー」なのだろうか。





「アナ雪」のレビューを書くよう言われ、私は今戸惑っている。
私にとって「アナ雪」は決して感動のストーリーの一言で語る事の出来る物ではなかった。
ストーリーは大人にとってこそ重い、課題を突き付けられるようなものだと感じたからだ。
有名すぎるあの主題歌も、日本語訳は明るいが、原語の歌詞を読むとなかなか痛々しい決別の歌である。

そもそも、松たか子の歌が絶賛されている事も私には納得できない。
確かに松たか子の歌い方は、歌としての表現はとても豊かだ。
しかし、これは芝居の一部。
歌っているのはあくまでエルサだ。
エルサが歌っている歌だ。
では、エルサはどんな人物か?
エルサはずっと自分の心を押し殺して生きてきた少女だ。
あんな豊かな感情表現など、あんな軽やかな歌声など、エルサではない。
私はMayJの歌い方こそが正しいエルサの表現だと思う。
MayJの一種ヒステリックな硬質な声。
歌の背景に楽譜が見えそうな歌い方。
音程もビブラートも正確でありながら人に不安や不快を起こさせる微妙な調子。
これこそがエルサだ。
本来ならエンディングと挿入歌の歌手は逆、いやむしろMayJがエルサの声優をやってもいいのではないかと思う。
エルサに演技の上手さは必要ない。
人の不安を掻き立てる危うさこそがエルサだ。




話が脱線してしまった。
まずはあらすじから読んでいこう。

あらすじはこうである。
王女姉妹、エルサとアナ。
エルサは雪や氷を司る不思議な力を持って生まれた。
幼い頃の姉妹は仲良しで、いつも一緒だった。
エルサの力を使って遊んでいた時、事故でエルサはアナを傷つけてしまう。
その結果、エルサは力を使わなくなる。
引きこもりがちになり、自分を責めて暮らすうち、どんどんエルサの力は強くなる。
力が強くなると同時に、コントロールもできなくなっていく。
そんなエルサを見た父である王の決断は、「力を隠させよう」、だった。
「恐れる事はエルサにとって良くない」というアドバイスを受けていたのに、そのアドバイスは全く生かされない方法を選んでしまったわけである。
そして王の決めた通り、エルサは力が発動しないよう、手袋をして生きる事になる。
時は流れ、あまり詳しく描かれていないが王も亡くなり、エルサの大舞台、戴冠式。
戴冠式の後、アナの衝撃告白(今日出会ったばかりだけどハンスと結婚したいの)のせいでエルサは決定的な力の暴走を起こしてしまう。
そしてエルサは氷の城を築き引きこもる。
アナはハンスの陰謀に巻き込まれつつ、エルサを救おうと奔走する。
そしてラストシーン、エルサがアナにかけてしまった呪いまたは魔法をアナ自身が克服する。
その時エルサの傷も癒え、エルサはまだ完全に安定はしないものの力をコントロールする術を得た。
アナがエルサの魔法を乗り越え、アナにかけられた魔法に打克った事で、エルサはアナの成長を知った。
アナの真実の愛を知ったエルサは、自分が側にいても許されるかもしれない、思う事が出来た。
初めて、エルサはアナからの愛を受け入れ、アナへの愛を肯定する事ができた。
それが「力」のコントロールに繋がり、ハッピーエンド。



私はこの映画のラストに違和感を覚えた。
違和感は2つ。
一つは「真実の愛」に関しての解釈。
もう一つは、エルサの生きる道は、生きる場所は、これではないのではないか、ということだ。



まず一つ目の「真実の愛」とは何か、だ。
作中、アナは心臓にエルサの魔法を受けじわじわ凍えていく。
それに対して「真実の愛が魔法を解くには必要」「真実の愛とは自分のしたい事ではなく相手が望むことをする事」と映画の中では語られる。
この作品では「自己犠牲」または「献身」がキーワードとなっている。
そのため、真実の愛=自己犠牲、という解釈をするブログが非常に多い。
しかし、真実の愛=自己犠牲というなら、エルサは最初から最大限の自己犠牲をアナに捧げている訳であり、この説では話が成立しない。
自己犠牲なしの真実の愛、というのもあり得ないだろうが、自己犠牲=真実の愛、でもない。
つまり、自己犠牲は真実の愛の一要素に過ぎないという事だろう。

では、真実の愛とは何か。
現代文の読解よろしく解くならば、作中で明示されているのは「アナが身を挺してエルサを救った」場面に真実の愛が表現されているという事。
このシーン以前のアナと、このシーンでのアナの違いは何か。
それは「エルサの苦しみへの理解度」だ。
初期のアナは、「力」を知られたショックで自作の氷の城に引きこもるエルサに「冬を終わりにして、あなたなら出来る!」と叫ぶ。
そもそもこのシーンのアナの歌の歌詞が酷い。
エルサの話を全く聞いていない。
愛情と言えば聞こえはいいが、とにかく自分の思いをぶつけているだけ。
その上、「一緒に帰ろう」からの「エルサのせいで国家の危機」という事実の告知。
現代社会で言うなら、休職してしまったうつ病患者に対して「頑張れ」と励ました挙句、その人の休職で職場にどれだけの金銭的被害が出たか語っているようなものである。
アナの行動は正真正銘の善意であり、確かに何とかしなければならない状況ではあるのだが、相手の状況がまるで理解できていない。
理解できていないから、「共感」のつもりの言動で相手の気持ちをさらにボロボロに傷つけている。
それも当然。
アナがまだ幼い頃にエルサはアナを遠ざけ、しかもその原因となる事件の記憶はアナから消去されている。
実はアナはエルサの事を何も知らないのだ。
幼い頃一緒に遊んだほんのわずかの楽しい思い出、それがアナにとってのエルサだ。
そしてまだ未熟なアナは愛情だけでは救えない心の傷の存在を想定できない。

「あなたなら出来る!」と叫ぶ時点でのアナにあるのは「思い」だけ。
これでは真実の愛とはならない。
理解がなければ相手の必要としている事をする事は出来ない。
「自分のしたい事ではなく相手が必要としている事をしなければ」というアドバイスは、「相手を理解しなければ愛によってさらに相手を傷つけてしまう」という事だ。
「思い」と「理解」が両輪とならない限り、自己犠牲も献身も的外れな方向に行ってしまう。
しかも自己犠牲を払っている状態、心身が辛い状態だと人の判断能力は鈍る。
つまり、自己犠牲を払う前に相手を理解していなければ、自己犠牲が二人の距離をさらに広げてしまうのだ。
これが氷の城に引きこもる前のエルサの状態であり、氷の城に説得に来たアナの状態だ。

真実の愛、とは相手を理解し、その上で相手が必要とする物を自分の身を削ってでも与える事。
実は、これでも足りない。
理解することと、受け入れる事はまた違う。
アナとエルサの父である王は、この「受け入れる事」が上手くできなかった一例だ。

思いと、理解と、受容。
この3つが揃わなければ真実の愛は生まれない。
真実の愛とは、とても条件が厳しいもの。
エルサには恋人はいない。
親もエルサに真実の愛を与える事が出来なかった。
エルサはずっと孤独だった。

思いと、理解と、受容。
3つを揃える事ができたのが「子供」であるアナであるという事。
私はここにこそ、作者のメッセージを感じた。
世界を変えていけるのは、「違う」存在と共生できるのは、子供であると。
子供は未熟で過ちも犯す。
傷つけあう事もある。
それでも、子供は希望だ。
子供だけが、「違う」存在に怯まず手を差し伸べる事が出来る。





2つめのエルサの生き方についてだが、これについて語るには「エルサの力」について考察する必要があるだろう。
エルサの「力」は様々な差別を受けるマイノリティの隠喩だと思われる。
人種、障害、性的志向、なんでもいい。
マイノリティである事。
そしてその特性が周囲から見て「なんとなく恐い」「害があるかも」と思われるものである事。
その2つを満たしてさえいれば何にでも当てはめる事が出来る。。

エルサの幼い手に黒い長手袋がはめられた瞬間、私には手袋が手枷に見えた。
「人と違う」事を認めてもらえない。
これは普遍的な痛みだろう。
そんな簡単に感動に塗り替える事の出来ないような、リアリティのある、痛み。
ファンタジーな世界観だが、非常に身近で痛みの伴うテーマが裏に潜んでいる。



アメリカは多様性に満ちた国だ。
人種のるつぼ、という表現は誰しも一度は耳にしているだろう。
しかし、その一方でフォビア(嫌悪、憎悪)による殺人も起きる、多様性を未だ飲み込めていない国でもある。
レディー=ガガの名曲、「Born This Way」も肯定の歌、エールの歌であると同時に、人々が「違い」を認められない現実を映している。

「違い」を隠すことは、自分の一部を隠す事だ。
しかし、それはいわゆる本音と建前の使い分けとは違う。
隠せば隠すほど、その「違い」を持つ自分を嫌悪する気持ちが生まれ、その嫌悪は澱となって心の底に沈殿する。

エルサに手袋を着けさせる事で王はエルサを守ろうとした。
しかし、それはエルサにとっては「お前は世間に受け入れられない」と親から宣告されたようなものだ。
自分を隠して生きる事を親から要求される事は、子供の心を切り裂く。
結果としてエルサは自分の力に向き合うチャンスを失い、力をコントロールする術を覚える事が出来なかった。
力を持たない両親に、力の制御は教えられない。
だが、親であるのなら、すべき事は他にあるのではないか。
王はエルサを愛していなかった訳ではない。
ただ、「ありのまま」を肯定する事が出来なかった。
我が子を愛している、でも受け入れられない。
それは親としては最上級の葛藤だろう。
同時に、ここで選択を間違えた事は子育ての上で最大の過ちとなる。
現代社会でもしばしば起こる問題だ。

子供が主役の映画の常だが、大人の過ちは無かった事にされ、子供の活躍だけが描かれる。
それでいいのだろうか?
私はそうは思えない。
エンターテイメントという甘い言葉でごまかすべきではない。
大人の過ちを見つめる事でこそ、大人は子供に向き合った、子供の活躍をきちんと見た事になるのではないだろうか。
王は間違った。
親子愛が、本来ならば親だけが示せるはずの無条件の肯定が、エルサにきちんと伝わらなかった事が全ての発端だ。
愛を巡って姉妹が迷走するきっかけを作ったのは王である事は間違いない。

エルサは結局自分を肯定できないまま、自我が育たず自分の心と向き合えぬまま、役目を果たす事だけを考えて大人になった。
しかし役目を果たすのに必要な己を律する強さは、自己を知り、自己を肯定する力を持つ者だけに与えられる。
結局自己を肯定できないエルサは役目を果たす事ができず、自己嫌悪から一人雪山に引きこもる。
その後エルサはアナとの絆によって、力を制御する強さを得る事になる。
それは「真実の愛が冷たい心を温かくした」などという単純なメロドラマではない。

アナの成長をエルサが実感するからだ。
一種の「アナ離れ」、エルサの自立である。
私は「自立」もしくは「成長」がこの映画の裏のテーマだと思っている。
真実の愛はストーリー上重要なテーマだし、エルサに必要なものだ。
しかし、なぜ真実の愛が必要なのか?
それは、真実の愛こそが自己肯定を産み、自己肯定が人を自立に導くからだ。

実は、見るからに幼いアナより、しっかり者で規範意識の高いエルサの方がずっと精神的には幼い。
「ルールを守る」「役目を果たす」、それは精神的な成熟とイコールではない。
エルサは何がしたいのか、自分は何が好きなのか、それすら自覚できていない、幼い子供だ。
「いい子」であって、「大人」ではない。
アナの結婚問題にしてもエルサのセリフは善悪判断のみにとどまっている。
「知り合ってから結婚まで早すぎる」、確かに正論である。
でも、私は可愛い可愛い妹に対して、正論だけで向き合う事に違和感がある。
愛情があれば正論だけでなく「自分の気持ち」も相手にぶつけたくなるのが自然だ。
「王族としての世間体で認められないが本当は認めてあげたい」でも「大好きな妹が好きな人を見つけた寂しさ」でもなんでもいいのだが、エルサの「心情」はそこに出てこない。
これは大切な家族への態度として普通ではない。
しかし、エルサが感情をきちんと表現できていないのはここだけではない。
手袋をはめて以後、氷の城を築くまでのエルサの心理描写は「役目を果たさないといけないけど私にできるだろうか」と一言でまとめてしまう事が出来る。

この「手袋」は作中でかなりのキーアイテムである。
手袋をはめた瞬間、エルサの心は成長を止めているのだろう。
心を凍らせ、役目を果たす事だけを考えて、いつしか凍らせた事すら忘れてしまう。
大人から見た「いい子」が精神年齢が高いとは限らない。
反抗期を超えて初めて、人は大人になる。
エルサの戴冠式時点のアナは反抗期と言える言動をしているわけで、ここで姉妹の精神年齢が逆転する。

エルサの心情に深く共感しなければ、エルサの「幼さ」は見えにくい。
物語の中ではアナが成長しエルサを救っているように見える。
幼くて真実の愛がわからないアナが自分の信じる道を行くが上手くいかない。
アナが成長し、自己犠牲を持って真実の愛を見つけ、それがエルサをも救う、と。
しかし、本当のハッピーエンドのために成長しなくてはならないのはむしろエルサの方だ。

エルサにとって「アナを守る事」は自身と向き合う事を避ける大義名分であった。
自身と向き合うには、力を持つ自分の生きる術を学ぶには、力を使ってみなければならない。
確かに力を使えば幼いアナを差別や危険にさらすことになりかねない。
現に一回、エルサの魔法はアナを傷つけたのだから。
周りを傷つけないため力を使わない。
自分も親もそれで納得できた。
自身と、自身の力と、向き合わない事はずっと正当化されてきた。
映画のラストでもそれは変わっていない。
アナを守らなければならない、力を隠さなければならない、という負荷をおろした事で力が一時的に安定しただけだろう。
これでは結局エルサの問題は解決しない。
エルサは城にスケートリンクを作って満足している場合ではない。
アナ抜きで自身の力と向き合う事をしない限り、まだ同じことの繰り返しになるのではないか。

エルサはもともと力を使ってアナと遊んでいたのだ。
コントロールする事は出来る力だ。
アナを傷つけた、その事によってエルサは傷つき、自分を愛する事も肯定する事もできなくなった。
アナはもう大丈夫、そう思う事で心が安定し力をコントロールできたとしても、ではアナが再び「大丈夫ではない」状態になったら、どうするのか?
結局それはエルサ自身の成長、変化なしには何も解決しないのではないか。
ラストシーンのエルサはあくまで「外的な抑圧から解放された」に過ぎない。
エルサはみんなのためにスケートリンクは作っても、オラフのために雪雲は作っても、自分のために「引きこもる城」以外に何か作っただろうか?
自らの意思、欲望、願望、そういったものとは最後まで向き合うことなく、「役目」で生きているのだ。
「役目」が王女だけでなくなり、「氷で人を楽しませる人」が増えただけだ。
役目を果たすサポーターを手に入れただけでもいい、という考え方もあるだろう。
しかし私はそれでは納得できなかった。





では、エルサはどう生きるべきだったのか。
その答えを私はある女性に見出した。
彼女は私の昔なじみであり、この原稿の前半部分の最初の読者だ。
私とカフェで向き合った彼女は、私のとりとめのない「アナ雪」批判を笑った後、訥々と彼女自身の人生を語り始めた。
これまで語られる事のなかった彼女の半生に、私は驚くと同時にライターとしての本能を抑える事が出来なかった。

その女性の職業は元学者、現フリーター兼お笑い芸人。
今は本名も顔も隠し、Kと名乗っている。
Kは有名な大学へ進み、その後さらに進学し研究者となった。
専門職に就き、4年で部署を1つ任されるようになるも、昇進と同時に激化した同僚のイジメにより退職。
退職を決める直前、お笑いに出会ったのだという。
その衝撃で眠っていたものが目覚めて今がある、Kはそう語った。

Kに「衝撃」を与えた芸人、名前は「じなんぼ~いず」。
Kが退職を決める二週間前。
他の芸人の誘いで見に行ったライブに「じなんぼ~いず」はいた。
実は、Kが衝撃を受けたのは彼らのネタにではない。
ボケの店崎武志のトークだ。
普通に聞けば同情をひくはずの暗い過去、問題を抱える家族。
しかし、彼はそれを笑いに変えている。
スター性の煌めきで。
一点の曇りもない、揺るぎ無い自己肯定で。
自分を肯定できる人間は、強い。
そして、眩しい。

それは、今までのKの人生で見た事のない「新種」の人間だった。
なぜ、この人は何の疑いもなく自分を肯定できるのか。
なぜ、この人はこれだけの過去を持ちながら、自分を愛せるのか。
なぜ、この人は迷わず躊躇わず、人前に自分を曝け出せるのか。

この人が羨ましい。
この人になりたい。
その衝動は、Kが体験した事のないものだった。

Kのこれまでの人生は、自己否定の連続であった。
「ダメな自分」を世間から隠し、そんな自分でも少しでも世の中に貢献する事。
それがKの人生であり、使命であり、運命だった。
「ダメな自分」が存在する事を許されるにはどうしたらいいのか。
常に基準は「許されるか?」だった。
就職の際にKが考えた事は「どの仕事が一番多くの人の期待に応えられるか?」、自分に寄せられる様々な期待の摺り合せで仕事を決めた。

いい大学に入っても、論文を通して弱き者の苦しみを世の人々に伝えても、仕事のクライエントの状況が好転しても。
Kは一度たりとも自己を肯定した事などなかった。
どれだけ努力しても、どれだけ「成果」を出しても。
自分を隠す事で溜まっていく澱を掬いだすには全く足りない。


Kが隠していた「自分」。
それは目には見えないハンディキャップ。
思春期にKに告知されたそれは、Kの自我の形成を阻み、自己愛の育つ機会を奪い去った。
Kは戦った。
「ハンディがある」と悟られないように。
勉強、部活、アルバイト。
人並みの人数は「友達」も持たなくてはならない。
普通なら、そろそろ「彼氏」も出来る年頃のはずだ。
人並みと普通。
そして「駄目な自分でも出来る事は何か」、Kの人生はこの3つが支配していた。
努力すれば、戦えば、いつか「駄目な自分」から解放されるはず。
そう信じてKは戦い続けた。

しかし、その願いは叶わない。
Kの戦いは戦っても戦っても、勝利は有り得ない戦いだ。
なぜなら勝敗の審判を下すのはK自身であり、そのKは自分が大嫌いなのだから。

Kは学者として、講演のような仕事も受けていた。
その中で、自分自身の事を話す事が一番苦手だった、と言う。
ハンディを持っているからと同情されたくない。
真面目で健気なエピソードだけ話して偽りの自分を人々に見せるのは嫌だ。
でも、不真面目な部分もある、醜い感情も持つ、本当の自分の事を話せば拒絶される。
拒絶を選べば、自分だけでなく家族に塁が及ぶ可能性もある。
同情を選べば、さらに自分は傷つく。
Kは同情される事を選んだ。
「駄目な自分」の意思は押し殺し、「自分と違って立派な家族」のために。
そして、「やりたい事が出来ない」という不満を持つ事すらできない、「やりたい事のない」人間に成長した。
決められた役割を演じる事は、安定はしている。
しかし押し殺したK自身のエネルギーは溢れ出る寸前で渦巻いていた。

そのエネルギーを発散する事が出来る唯一の場が、お笑いライブなのだとKは語った。
お笑いライブでは、「芸人」でいる間は、人と違う自分、変な自分を否定されるのではなく、笑ってもらう事が出来る。
自分を隠さずとも、普通でいられなくとも、肯定してもらえる場がある。
それによって自分は変わっていける、と。

今でも揺れる自分がいる、とKは言う。
そんな一瞬で人は変われない。
だからこそ、人の反応のある世界にいる必要があるのだと。
一人になると、人は自分の悪い面に溺れてしまう。
氷の城でのエルサがまさにそうだ。
エルサは過去の自分のようで、アナ雪は見るのが辛かった、とKは語る。

そして、Kの挑戦は「なりたい人」の真似をするだけにとどまらない。
結局は自分は自分でしかない。
だから、自分を変える事なしになりたい人に近付く事はできない。
自分を変えるため、Kは芸人活動を始める時、いくつかの課題を自分に課した。

いつか自分の人生を語って笑ってもらえるようになる事。
自分を知り、自分がどう見えているかを知る事。
自分を肯定できるようになる事。
まだまだ1つもクリアできていないけれど、とKは笑う。



Kにエルサはどう生きるべきか聞いてみた。
エルサは顔を隠して名前を変えて、サーカスに入るか奇術師になるべきだったとKは答えた。
それではまるでKではないか。
Kは「私はエルサのような美人じゃない」と笑って、私に取り合わず持論を展開し始めた。

自分を、人と違う自分を、許してもらう、受け入れてもらえる事を目指しても、拒絶されるだけ。
親が自分を愛していることと、親が「ありのままの自分を受け入れてくれるか」は別問題。
人と違う自分を曝け出し、違うからこそ出来る何かを誇示する事。
そうすれば必ず誰かがその違いに価値を見出してくれる。
その「誰か」と生きていけばいい。
隣にいるだけが愛ではないし、愛していても受け入れられないものは存在する。

ただ、エルサが親を恨めない気持ちもわかる。
王は確かにエルサを愛していて、ただ「ありのまま」のエルサを受け入れるだけの強さを持てなかっただけなのだから。
エルサも自分も「完璧でない」のは当たり前。
どんな目立つ疵であっても、一つの疵があるからといって自分の全てを否定するのは間違っている。
Kの話をまとめるとこういう事だ。
その間、Kは常に笑顔で、しかし芸人めいた「上手い事」を言おうと終始気を張っていた。
まだまだKも駆け出しだ。



そして、Kの本音は短い一言にこそ現れていた。
常に笑顔だったKが、一瞬だけ真顔に戻って、こう言った。
「違ってもいいよ」では救われない。
「違うからいいよ」と言われなくては。

エルサを本当に救うのはアナではない。
オラフだ、とKは力説する。
エルサの「力」によって生を繋いだ雪だるまのオラフ。
オラフだけは、エルサの力を「受容」ではなく「必要」としている。
「もしアナにエルサと同じ力を持つ子供が生まれたら、アナはきっとエルサを憎んでしまう。
 それは母親の本能だし、我が子を第一に考え何をしてでも守りたい、これも真実の愛。
 止めようのない変化。
 自分の意思ではどうしようもない事。
 でもそうなってもオラフだけはエルサを必要としてくれる。
 エルサを受け入れるのではなく、必要としてくれる、それがエルサの支えになる筈」

Kにもアナやオラフがいるのか?
私の質問をKは笑ってはぐらかし、私はクリストフがほしい、と答えた。
すっかり芸人めいた答えをするようになったKに、結局私は負けた。
Kの真意を聞き出すことはできなかった。





しかし、Kが漏らしたこの台詞こそ、私の感じた違和感を象徴しているように思う。

違ってもいいよ、では救われない。
違うからいいよ、と言われなくては。

似ているようで、全く違う2つの言葉。
我々は「違う」人々と共生しようとしているように見えて、「受け入れてあげるよ」と上から目線になってはいなかったか。
「違う」人々を受け入れる姿勢を見せる事を自己犠牲と勘違いし、それを「真実の愛」だと思い込んではいなかったか。
真実の愛とは、その違いも含めて相手を必要とする事。
一方通行の思いでは結局誰も救われない。
Kの言葉を私はそう解釈した。

アナ雪は、「違う」とされた者が破壊された絆を再生する物語だと、Kと向き合う中で私は感じた。
絆の再生には「真実の愛」が必要だが、それは思いだけでは成立しない。
深い理解が必要となり、その理解のためには時として辛い思いもする。
「違う」存在との共生の難しさを我々大人に突きつける物語だ。
「受け入れてあげる」表面的な上から目線の共生ではなく、ではなく「相手を必要とする」より深く対等な共生へ。
現実の社会の根深い問題を解決する上で忘れてはならないテーマだ。



昨今はスピンオフも流行している。
オラフが主役のスピンオフを私は希望する。
その中で、今度こそ、エルサが自分の欲望と力と向き合う姿を見てみたい。
人と違う「ありのままの自分」を社会に受け入れてもらう。
そんな事は出来なくてもいい。
けれど、人は一人では生きられない。
「ありのままの自分」を自分自身が知ることができれば、誰か一人自分の力を必要としてくれれば、生きていける。
誰かとともに生きていく、当たり前のようで、それを奪われ傷つく人がたくさんいるという残酷な現実。
しかし、それは決して乗り越えられない壁ではないという事。
それがアナ雪とKが私に伝えたメッセージだと信じている。



この文章が誰かの「ありのまま」を引き出す一助となる事を聖夜に祈って。


2014年12月24日 文:朽葉矢子

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ある女性のリベンジ@脱サライブインスパイアルポ

大人は若者に夢を見る。
それはとても一方的で身勝手な行為で、時には嫉妬で若者の足を引っ張る大人もいる。
けれどそんな大人に負けなかった若者だけが夢をつかみ、一生若者でいるという特権を得られるのだ。
そして負けて大人になった者がまた若者に夢を見る。
若者がいなければ大人は生きていけないくせに、若者より何かを得て大人になったと思いたがるものだ。
私もかつてはそんなくだらない大人を嫌悪した若者であり、今はそのくだらない大人の一人だ。
いや、くだらない大人の一人だった、と言うべきか。

しかし、大人と若者の交流の在り方は一つではない。
「自分は敗者だ」という事に気づいたがために縛られてしまった大人と、夢を追う若者の人生が交錯する時、予想もつかないような化学反応が起きる事もある。
これはそんな大人と若者の交流の記録である。





某年1月。
下北沢の本多劇場の取材の帰りに、私は醤油を切らしていたことを思い出した。
スマホで調べると駅まで少し遠回りすればピーコックに寄ることができるようだ。
グーグルマップに従ってピーコックの前までたどり着くと、大声で呼び込みをする若者たちに出会った。
「無料のお笑いライブ、7時からピーコックの4階でやります!」
駆け出しの芸人による無料ライブだろう。
世の中本当に無料のものなどそうはない。
このライブだって彼ら芸人が有料のライブに人を呼び込むための宣伝の一つに過ぎない。
通り過ぎようとした時、視界の端に妙に気になる光景が飛び込んできた。

30手前ぐらいだろうか、おばさん染みるには早いだろうに鈍色のオーラをまとったような女性。
ひっつめた黒髪に化粧っ気のない顔、およそお笑いライブになどふさわしくなさそうだ。
その女性を一生懸命ライブに呼び込もうとする若い男。
勧誘は失敗に終わるだろうと思いながら私はピーコックに入る。
醤油を買わなければならない。
ところが、その瞬間醤油など些細な事は私の頭から消え去った。
その女性が呼び込みの男性と共にエスカレーターに乗ったのだ。
まさか。
私は思わず彼女たちを追ってエスカレーターに乗った。
まるでウサギを追いかけるアリスのように。



ライブ会場はライブハウスでも劇場でもない、ただのがらんとしたスタジオだった。
教壇状のステージを設置しパイプいすを並べ、ついたてで楽屋を仕切っただけの代物だ。
予想通りテレビで見る顔など一人もいない。
先ほどの女性も既に席に着き、配られたチラシにのった顔写真を熱心に眺めている。
私も彼女の斜め後ろの席に座った。
すぐに電気が消え、ライブが始まった。

ライブの間、私はネタ以上にその女性が気になった。
案の定女性は大笑いすることもなく時々首をかしげている。
しかし、ライブが終わると先ほど呼び込んでいたのとは違う男と何やら話し込んでいる。
つい聞き耳を立てると、恐ろしく初歩的な質問が飛び出していた。
彼女は「コント」という単語の意味を知らなかった。
お笑いに無知というレベルを超えて、テレビやインターネットのある生活をしているのか疑いたくなるような会話の後、彼女はふっと笑った。
その瞬間、鈍色のオーラが少し晴れたように見えた。




半年後、私は彼女と新宿で再会した。
歌舞伎町の雑踏の中、彼女に気づいたのは偶然というほかはない。
そこはお笑いや落語専門の劇場の真下。
彼女はあれからずっとお笑いライブに通っているのだろうか?

しかし、始めはなぜ彼女が引っ掛かるのかわからなかった。
下北沢で見た鈍色の女性だとわかるまで数秒を要した。
あまりに雰囲気が違っていたからだ。
無造作にひっつめられていた髪は、大きなバレッタでまとめられ緩くウェーブしていた。
服装もカジュアルなパーカー姿で、どうやら化粧もしている様子だった。
そして何より、彼女は芸人らしき若い男の言葉に大きく口を開けて笑っていた。
彼女が冬の下北沢で見た鈍色の女性だと気付いた時、私は思わず彼女に声をかけていた。

話しかけた瞬間、彼女の顔が引きつる。
もし私が男だったらきっと話も聞いてもらえなかっただろう。
なんとか彼女とカフェで会う約束を取り付けると、彼女はまた劇場の方に向き直り、今度は二十歳そこそこぐらいの女の子と話し込み始めた。





三日後、渋谷のカフェで彼女と私は向き合っていた。
信じがたい事に彼女はミニスカートで現れた。
そして私が名刺を渡すと、彼女はKと名乗った。
「お芝居関係のライターさんなんですね。
あの日はコマ劇場にでも行った帰りですか?
そもそも役者でも芸人でもない私に話が聞きたいって、どんなことでしょう?」
私は冬の下北沢でKと出会っていたことを話した。
Kは照れくさそうに笑い、「あの頃は仕事を辞める直前で追い詰められていたから」と話す。
ああ、Kも若者に夢を託す身勝手な大人だ。
私と同じだ。
そう思いかけた時、Kの口からは予想外なセリフが飛び出した。

「この前話しかけていただいた時、今度お笑いライブに出るので、そのネタの相談をしていたんです」

お笑いライブに、出る?

「私はもともとネット上で小説を書いたり、ブログでそこそこのランキングに載ったりしてたんですよ。
 書くことが大好きで。
 それを仕事にする程の才能はありませんでしたけど。
 本当の性格はきっと目立ちたがりのおしゃべりです。
 働き出してから一度全く書けなくなって、でもお笑いライブに通ううちに書きたいって気持ちがあふれてきて。
 そんな時に彼らが手を貸してくれたんです」

Kは流行の表現を使うなら「アラサー」だ。
今更芸人になれるとでも思っているのだろうか?

「芸人になろうって言うんじゃないんですよ。
 今はエントリーさえすれば出られるライブが沢山あります。
 プロの芸人になれなくてもライブには出られるんです」

見透かされている。
大人にとって、何かに挑戦することは、何から利益を得ようとすることと同義だ。
その「利益」は多くの場合金銭を指している。
何かをやるためにやる、やりたいからやる。
それは若者の特権ではなかったのか。
一度大人になったKは、また若者に戻ったのだろうか?
そんな事があり得るのだろうか?

「もし私に何か取材めいたことがしたかったのなら、私の出るライブに来てください。
 あなたが私を見つけた下北沢の無料ライブですから。
 プロのライターさんが来てくれたら、私にダメ出ししてくれてる皆さんも喜びます」

私が呆然としている間に、名刺だけ残してKは席を立ってしまった。




Kに告げられたライブのあるその日、私は下北沢には行かなかった。
自分の気持ちを整理できなかったのだ。
そしてKのアドレスにメールもできないまま、秋は深まりもう冬はすぐそこに迫ってきた。
Kはまだライブに出ているのだろうか?
教わったツイッターのアカウントを探してみる。
私の予想に反して、Kはまだライブに出ていた。
いや、むしろ活動範囲を広げ、下北沢を飛び出していた。
お笑いファンとして芸人と、ライブを見る仲間と、繋がっていた。
さらには芸人としても交流を持つ相手を増やしていた。
Kのネタに駄目だしをする者、エントリーできるライブの情報を提供する者、後から振り返るための動画撮影に協力する者…
駆け出しの芸人たちが何人もKに協力していた。
そしてKは彼らの期待に応えるべく、次々とネタを書きライブに出ていく。
信じられない光景だった。
私は再びKに連絡を取り、カフェに呼び出した。



カフェに現れたKは前にもまして表情豊かに雄弁になっていた。
ライブの楽しさについてひとしきり語ると、声のトーンを硬くしてKは切り出した。
「聞きたい事があるから呼んだんですよね?」
聞きたい事はある。
でもそれが何かわからないから呼んだのだ。

「じゃあ、私が書けなくなった時の話をしましょう」

唐突にKは語り始めた。

「私、ネット上で小説を書いていた頃、本当は少女マンガのような甘い恋愛ものが書きたかったんです。
 笑っていいですよ?
 私、今は芸人なんで。
 でも甘い恋愛ものなんて需要もそんなにないし、私のキャラに合ってなかったんでしょうね。
 すぐにエログロを求められるようになりました。」

求められる事とやりたい事が違ったって事?

「そうですね。
 よくある話です。
 求められる事は嬉しかったし、人の文体をコピーするのが得意だった私はすぐにホラーや官能小説めいたものも書けるようになりました。
 でもずっと恋愛ものが書きたくて…それもファンタジーな世界での恋愛ものがどうしても書きたかったんです。
 そんな時、ファンタジーを得意とする男の子と掲示板で知り合いました。
 合作を申し出て、最初はその子に希望に合わせてホラーで。
 何作か書いた後、ついにファンタジーの長編にチャレンジする時が来ました」

合作は上手くいったの?

「いいえ。
 私はその子の才能の煌めきに当てられ、最後には一文字も書けなくなりました。
 自分にはオリジナリティがない。
 人のコピーは出来ても、人の書いた話の交通整理ができても、0から1を産むのは私にはできない仕事でした。
 そんな自分を嫌悪しながら小説だけは書き続けてていました。
 でもついに全く書けなくなった私は、その子とも音信不通になり作品は未完のままとなりました」

今でもその作品は未完のまま?

「ええ。
 あれを読み返したら、また書けなくなりそうだから…
 才能の煌めきって、遠くから見る分には綺麗だけれど、隣に並ぶと強すぎる光が刺さって痛いんですよ。
 だからそれ以来書くのを止めて数年はただただ働いてました。
 けれど、あの下北のお笑いライブがターニングポイントだったんですね」

ライブに出て人生が変わった?

「いいえ。
 変わったのはライブを見た時ですね。
 ライブの後芸人さんと少しブログの話をして…
 かつてのランキング、今は廃墟だってこともね。
 そうしたら彼らの目の色が変わって。
 真剣に『ブログにぜひ俺らの事書いてくださいよ』なんて言うんです。
 それからかな。
 ブログを再開して、ライブを見に行くお笑い仲間ができて、転職して。
 転職を機にイメチェンして、いろいろやるようになりました。
 その延長でネタを書いてみたら、彼ら芸人が全力でサポートしてくれて」

人に恵まれた?

「そんな感じですね。
 私を支援してくれる芸人さんの中で、一人、昔の自分に重なる男の子がいたんです。
 書けなくなる直前の私にそっくりな子」

それは、恋?

「まさか。
 本当に『男の子』ですよ。
 その子はとっても真面目で努力家で…
 あ、そこは私とは似てないんですけど。
 その子はコンビでやっていたものの、相方さんは派手な存在感を持つスタータイプ。
 そして発想力も持ち合わせていて、ネタも相方さんが主導して書いていました」

今はその子たちはどうしてるの?

「解散しちゃいましたよ。
 やっぱりあの子にとって、いろいろと負担が大きかったんじゃないかな、って勝手に思っています。
 それでも、あの子は諦めませんでした。
 ピン芸人になって戻ってきたんですよ」

Kさんはどうしてその話を私に?

「たぶんあなたが私に聞きたい事の答えだからです。
 『夢は叶えるもの』と言えば努力家で、『夢は見るもの』と言えば怠け者に聞こえますよね。
 でも叶う可能性の審査をしてから向き合った夢は、もう夢じゃない別の何かになってるんです。
 夢があるなら努力するのは当たり前です。
 けど、努力する前に審査をする必要はないと思うんですよ。
 高校ぐらいちゃんと出て健康でさえいれば、バイトでも餓死しない程度のお金は必ず稼げますから。」

ああ。
そうだ。
思い出してしまった。
私もかつては小説家を夢見た一人だった。
新人賞を受賞した作家ですら、受賞後もアルバイトをしないと生きていけない現実を知り夢を諦めた。
ライターになった時、文章を書いて食べている事でもう満足しようと決めた。

「じゃあ私はこれで。
 次こそは私のライブに来てくださいね?
 でないと取材料とりますよ」

慌ててカフェの伝票を握りしめ、ここの代金を持つことを伝えると、「もっと高い取材料取れるように売れないといけませんね」とKは笑った。





大人は若者に夢を見る。
夢を叶えた者だけが若者で居続ける特権を得る。
ずっとそう信じてきた。
しかし、どうも私の考えは間違っていたらしい。

大人は若者に夢を見る。
若者は自分で夢を見る。
叶おうが叶うまいが、夢を見て進み続ければ若者でいる事が出来るのだ。
一度大人になってしまっても、もう一度若者に戻る事だって出来る。


KやKを支える若者との交流を通して、世界は少し変わって見えた。
私も、もう一度若者に戻りたい。
KとKの支援者をモチーフに長編の小説を書く事。
それが私の新しい夢となった。



2014年 11月6日  (文)朽葉矢子



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とにかく生のステージが好き。
お笑いメインに、芝居、宝塚と西へ東へ。

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