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2019-04

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食べ物の記憶@他人のおにぎり問題にまつわるエッセイ

食い物の恨みは恐ろしい。
そんな言い回しがあるが、食べ物の記憶というのは勿論恨みばかりではない。



美味しいものを一緒に食べた温かい幸せな記憶。
不味いものを一緒に食べて怒りを共有した記憶。

「誰かに食べさせてあげたい」、とか「誰かと食べたい」という思いは自覚している愛情以上にストレートな愛の発露だ。
もしあなたが料理をするのが好きな人なら、スーパーに行けば今自分が一番大切に思っている人が誰かわかる。
旬の野菜や魚を前にして、それを使って料理を振る舞いたいと思った相手があなたにとって一番大切な人だ。


私自身も、食べ物にまつわる記憶はたくさんある。
私は二十歳の頃に恋人を病気で亡くした。
彼が弱っていく間、食べられたものが食べられなくなっていく姿を目の当たりにした。
一緒に食べられなかった旬の食材たち…筍、鰆。
それらをスーパーで見かける度、半ば条件反射で彼の事を思い出すのだ。

しかし、それはいつまでも続かない。
良くも悪くも時は人を変えていく。
数年、いや十年近くの時を経て、私にも新しい恋人ができた。
彼に弁当を作る時は至福の時…
そして季節は巡り、昔の恋人の命日が近づく。
スーパーで筍を目にして考えるのは、今の恋人の好みに合わせたレシピばかり。

この時初めて、私は亡くなったかつての恋人がいつの間にか私の中で過去になっていた事に気付いた。
「今の彼だけを見る!」なんて大上段に構えた決意をした訳ではない。
一緒に食事をとる、私の作ったものを「美味しい」と言ってもらう。
そんな些細で幸せな小さな記憶は、死別という大事件をも風化させる力を持っている。

と同時に、心を病んだ私の父の不規則で不健康かつ予測不能な食生活は母と私の悩みの種である。
ダイエット宣言をしたその日の晩にポテトチップスで晩酌しシメにカップラーメンを食べたりするのだから始末に負えない。
そんな父でも父である。
父でも食べる健康的なレシピは日々増え続け、私はそろそろ本が出せそうだと苦笑いで撮りためた料理の写真を眺めている。








かように手作りの料理というのは愛情が詰まっている代わりにさまざまな問題も引き起こす存在だ。
その一例がネットニュースに掲載された「他人のおにぎり問題」である。


昨今、「他人の握ったおにぎりは嫌だ」という人が増えているという。
それは単なる潔癖症なのだろうか?
私はそうは思わない。

この場合の「他人」はほとんどの場合「家族より外側にいる人」程度の意味合いだ。
職場の同僚、ママ友、姻戚ぐらいの距離感である。
さすがに初対面の他人の手作りは衛生面を考えて怖くなるのは理解できる。
ただ、それより近い、他人ではあるがある程度の関係性の出来上がっている相手のおにぎりも嫌だという事。

それはパーソナルスペースの問題と言ってもいいだろう。
「ここまでなら踏み込んでもいい、ここから先には来ないでほしい」
そういった線引きの中で空間的なものをパーソナルスペースと呼ぶ。
他人のおにぎり問題も要するにこの線引きの問題である。


問題となるのは、「他人のおにぎりは嫌だ」という人が線引きを変えたのがどこなのか?という点だ。
一億総潔癖症時代の到来で、「手作りの料理を食べたいと思える人」の線引きがシビアになったのか。
それとも職場の同僚やママ友が踏み込んできてほしくない相手に変わってきているのか。

そのどちらなのかによって、この「他人のおにぎり問題」は全く別の社会問題になる。
「他人のおにぎりが嫌だ」という人は一度立ち止まって考えてほしい。

他人のおにぎりの何が嫌なのだろう?
彼または彼女は他人と位置付ける事が本当に適切な相手だろうか?

「おにぎり」という卑近な単語で問題の本質を有耶無耶にしてはいないだろうか?
キャッチーなタイトルで人目を引くのはマスメディアの常套手段である。
「パーソナルスペースの変化による同僚や姻戚との距離感の問題」というより「他人のおにぎり問題」といったほうが軽く聞こえる。
しかし、食事は「衣食住」の中ですら最上位、そんな軽いものではない。
おにぎりの向こう側にある自分の心を今一度見つめなおすべきだ。
その時、おにぎりとお茶で気の置けない人と語り合うのもいいだろう。
この問題はネットで語り合うのではなく、対面で人と語り合ってほしい。
それも、食べ物を前にして。

おにぎりを誰と食べたいか?
その相手の健康や好みを考えると具は何が良いだろう?
合わせるお茶の種類や温度は何が好みだっただろうか。
考えている時、わくわくして幸せな気分になってくるだろう。

その相手の握ったおにぎりは食べたいと思える筈だ。
その人のおにぎりを食べたいと思える人に囲まれて生きる事は幸せなことである。
おにぎりという身近な家庭料理は、心を覗き込むためのフィルターとして案外に優秀である。
当コラムを書いていて筆者も母の作った牛肉の時雨煮の入ったおにぎりが食べたくなった。
私が作っても同じ味にならない、これでもかと生姜の入った母の時雨煮である。
それでは、母に時雨煮をねだりに行くとしよう。





文:朽葉矢子
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