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2019-09

愛と孤独と才能と@ボヘミアン・ラプソディ

何年前だろうか、小学生の頃、音楽の授業で「モーツァルトの才能に嫉妬したサリエリがモーツァルトを殺す映画」を見た。
そこに出てくるモーツァルトは不作法でバカで先輩であるサリエリに敬意のカケラも示さない非常識な男。
なのに音楽の神が選んだのはサリエリでなくモーツァルトで、音楽の才能だけは持っていた。
そのアンバランスさから目が離せなかった。

その何年か後、舞台の「モーツァルト!」を見た。
この作品ではモーツァルトは大人のヴォルフガング(通称ヴォルフ)と、子供のアマデウス(通称アマデ)に分裂していた。
正確には、ヴォルフの中にはいくつになっても子供のままのアマデが同居していた。
そして音楽の才能は本質的はヴォルフのものではなく、アマデとの異常な共存なしには存在しないものだった。
アマデが才能の具現化、というとそれはまた違う気がするので、説明が難しい。
とにかく大人のヴォルフは音楽家としての自分、一人の男としての自分として生きようとする。
そこにアマデがいることで歪が起きる。
アマデはヴォルフの中にいるけれど、ヴォルフの「一部」かと言うとそれも違う。
でもヴォルフの才能はヴォルフのみで制御できるものではなく、ヴォルフはアマデに徹底的に振り回される。
アマデを演じるているのは10才かそこらの子役なのだけど、彼らが本当ぞっとするほど研ぎ澄まされた表情をしている。
無垢。
そして、無垢だからこそ欲望に制御がない。
才能のままに作りたい。
それがヴォルフの「生活」を破壊するとしても。
作ることを邪魔するなら、アマデはヴォルフにすら牙をむく。
ヴォルフはアマデから自由になれない。
でもアマデを切り離せても、それはもうヴォルフじゃない。
才能が、人を振りまわし蝕んで、侵食して、ヤドリギのように絡み合っていく。



このボヘミアン・ラプソディもそういう話だ。
フレディ・マーキュリーは天才だ。
それはもう異論のない話だろう。
フレディはマイノリティだ。
それは民族的な事でもあり、セクシュアリティの話でもあり。
家族の輪の中ですらも、彼はマイノリティだった。
その「人の輪の中の孤独」はフレディの才能の餌となって、才能は大きく育った。
育った才能は、前以上に餌を必要とするようになった。
だから才能はフレディが孤独になるように、悪魔と取引をした。

もちろん実際の映画に才能の具現化した存在など出てこないし、悪魔だって出てこない。
最後にはフレディは再びQUEENの中に戻っていくし、「孤独」だけが彼の人生ではない。
けれど、才能に振り回され、家族を求めながら孤独へ孤独へ突っ走っていく様は、ついこんな詩的な表現にしたくなる。

フレディはバンドを、バンドメンバーを愛していた。
彼らと音楽をする時間を愛し、彼らと歌う曲を作る事を愛した。
けれど、才能はフレディが彼の才能を「QUEEN仕様」にする事が気に入らなかったのじゃないか。
フレディの中で「QUEENを愛する人としてのフレディ」と「音楽の天才としてのフレディ」は分裂してしまっていたんだろう。
QUEENと音楽は、本来フレディにとっても不可分なものだったのに。

フレディは愛を、肯定を、求め続けた。
お金を得て彼がしたことは、お金を使って肯定を集める事。
でもそうやって集めた肯定は本物ではなかった。
どんどん深みにハマっていくフレディ。
仕事仲間にも騙され、結婚しても自分のセクシュアリティに気付いてしまって上手くいかない。




フレディと一度は結婚する女性、メアリー。
史実が何割反映されているかはおいておいて、彼女との関係にこそフレディの孤独の深さが現れている。
付き合う前、メアリーは服屋の店員。
フレディにレディースも混ぜたコーディネートをして、「あなたのスタイル素敵よ」という。
フレディの中にある「セクシュアリティの揺らぎ」をメアリーは意図せず肯定してしまった。
そこから始まる「恋のようなもの」。
成功して指輪を贈って、家を建てて…
けれどある日フレディは気付いていしまう。
男に対して性的な目で見てしまう自分を。
でもメアリーが嫌な訳じゃない。
だからフレディは自分を「ゲイ」ではなく「バイ」と表現する。
それに対してメアリーは「あなた、ゲイよ」と返す。

メアリーにとってフレディの愛は「親に肯定を求める子供の愛」でしかなかったんだろうなあ。
そして台詞を見る限りメアリーはその手のだめんずを引き寄せるタイプらしい。

そして始まる奇妙な生活。
フレディはメアリーの家と自分の家を隣同士で建てた。
フレディの仕事部屋とメアリーの寝室は窓が近くて、スタンドのオンオフが見える。
そんな合図を何度もメアリーにやらせて無邪気に笑うフレディ。

このフレディの「無垢」が痛い。
フレディにとって、愛は愛なんだ。
その愛がセクシャルな欲を伴うかどうかは本質じゃない。
でも、恋人ならば夫婦ならば、その「愛にセクシャルな意味を伴うか」は大事な問題だ。
メアリーはフレディの未分化だけど無垢な愛ではなく、大人同士の清濁併せ持ちつつしっかり意味を自覚した愛を求めた。
身も蓋もない言い方をするなら、「私はアンタのお母さんじゃない!」ってわけだ。
家事とかそういう意味での「お母さんじゃない」ならまだ乗り越えようもあるけれど、愛の形としての「お母さんじゃない」は根深い。
しかも気付いているのはメアリーだけで、フレディは分かっていないから。

メアリーの「あなた、ゲイよ」は「あなたが私に求めているのは赤ん坊が母親に求める無条件の肯定という形の愛であって、恋人同士のセクシャルな愛ではない」って事を突き付ける台詞で、胸が痛かった。


そしてアメリカだなあと思った事。
ラストシーンの後、本物のフレディの半生の写真も出てくるんだが、そこにフレディの最期を看取った恋人のジム・ハットンも出ている。
映画の中でもガッツリとフレディとジムはキスしてます。
腐女子がキャーキャー言うような、コンテンツとしてのBLではない、マイノリティでも迫害されてもそうせずにいられない愛がそこにあった。
フレディとジムのキスは作品として必要だった、と思う。
あれを見て初めて「同性を愛する」という事が彼らの人生にどう影響したかを実感できたような気がする。

ライブ・エイド前に、フレディはジムと実家に行く。
ジと家族でお茶をする。
彼らは自分たちが恋人なんて言わない。
「友達」と紹介する。
けれど、母親は気付いている。
フレディが言いにくい言葉をしぼりだそうとする時、ソファのひじ掛けの上で合わさる二人の手に。



ストーリーと絡み合いながら流れるQUEENの音楽が予想通り素晴らしい。
特にウィーウィルロックユー制作シーンとクライマックスのライブ・エイド。
ウィーウィルロックユーの和訳歌詞がどうにもダサいのはご愛嬌。

タイトルにもなっているボヘミアンラプソディ。
作曲シーンのフレディの表情がたまらない。
数分のシーンなのに、彼の葛藤が全て伝わってくる。
周囲が自分に求めているもの。
自分が本当に求めているもの。
自分でもそれを望んでいるかわからないけど自分を突き動かす何か。


この映画は全てが史実という訳じゃない。
私も事前にドキュメンタリー番組とか見て事実と映画の比較とか予習したし。
でもフィクションを織り込んだことで、「才能に振り回され孤独と戦いながら愛を求める無垢な魂」というフレディ像がクッキリ立ち上がってくる。


最後に、私はこれは休日の朝イチに音響の良い大きな映画館で見た。
いい音で、大画面で、でも静かに見たかったの。
応援上映?爆音上映?好きな人もそれはそれでいい思う。
QUEENの音楽を全力で楽しむのもいいと思うし、それだけでも充分楽しめるぐらい音楽がイイ。
でも私派まずはフレディの生きざまを見たかった。
大人になってから何回か引っ越して毎回荷物を減らしてもQUEENのアルバムはずっと持ってるぐらいQUEENが好きだから。
最後の本物の写真に想定外の揺さぶられ方はしたけど、それもよかった。
さてもう一回アルバムを聞こう。
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