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2019-04

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人が人になろうと決める時@チョコチップクッキー


久しぶりに下北で芝居を見てきた。
ザ・スズナリで、Rising Tiptoeのチョコチップクッキー。
チラシいわく、「労働について問いかける」話しらしい。
同じくチラシいわく、「チョコチップクッキーは食べる人が味を決めるの」と。


総合すると、「物事の多面性」、「自己決定」、「自我の形成」の3つが柱となって、人のアイデンティティを揺さぶる話だなあ、というのがざっくりした感想。
途中で依存という要素が増えてさらに話が複雑化していく。
この話は1場面ずつストーリーを追って説明してもおそらく記事を読んだ人に何も伝わらない。
だから、この記事はあくまで「この公演を見た私の頭の中」の話を書く。


「物事の多面性」と労働、を組み合わせて考える。
仕事は「やりがい」を通して人生を充実させてくれる面もある。
何かを生産してそれを生活の糧に替える機能もある。

話の舞台は「病人の街」とでも言おうか。
病人は生活費を保証され、家をあてがわれ、家事もしなくていい。
療養に専念できるし、この世界で超高級品であるチョコレートを「ポリフェノール」という名目で薬として処方されることもできる。
しかしまぁ人間なんてこんなもの、と言うべきか…街には仮病の病人であふれている。
主人公も喘息のフリをして街へやってきた。

街にいる病人たちは色分けされたバッチをつける。
そのバッチでその人の「級」がわかる。
これだけでも正直ディストピア感がすごいのだが、この街の住人はそれをアッサリ受け入れている。
なぜだろう、と疑問に思いつつ話が進んでいく。
主人公は作業所的な所に通うのだが、そこで級なしの特別市民、「プラチナ」のとんとんと出会う。
とんとんはみんなのサンドバッグ状態、動きも鈍く記憶力も低く口調もたどたどしい、その上親もここの市民で、「本物」と蔑まれている。
そう、この街の住人は「自分は仮病だから本当はまとも」というアイデンティティを持っている。
本当に治療が必要な人がバカにされ、仮病の住人が大手を振って歩いている。
そりゃあそうだ、仮病の住人は本当はできるんだから。

ここまでで「生活保護とかの社会福祉バッシングか?」と思ったが、この話はそんなに底が浅くはない。
主人公は少女時代の思い出からチョコチップクッキーに並々ならぬ多い入れがあるのだが、この街では基本的に料理はしない。
だから処方されたポリフェノールでクッキーを作れない。
クッキーを作りたくて動いていると、仲間になってくれそうな女性が現れる。
その女性はこういう。
「このピクニックには終わりがないの、自分でお開きにしなければ」
ここでストーリーに「自己決定」の要素が加わる。

序盤から出ている「テルテル」。
彼女は片頭痛でこの街にやってきた。
今ではすっかり良くなっているけれども、街を出る勇気がなくモラトリアムのように街で過ごしている。
彼女は作業班のリーダーの誘いを拒否した事をきっかけに街を追われる。
その時に街のメンバーは冷たく彼女を突き離す。
でも同時に。
「君はまだ若い」ともいうんだ。

ここにいたくない。
自分はここにいる人間より上等な人間なはずなんだ。
だけど、ここでしか生きられない。

そういう葛藤が街の人間にはある。
長く街にいればいるほど、その葛藤は心を蝕んでいく。
自分の中でそれをおさめきれなくて、とんとんのような「本物」いじめにつながっていく。
だって、とんとんは「ここにいていい」んだから。
たとえここが密告のあふれる監獄でも。
「ここにいていい」と無条件に言われることがどれほど羨ましい事か。
テルテルの離脱は彼女の自己決定ではない。
だけど、彼女は後に出紙をよこす。
ファックを連呼する、街での腺病質な姿から想像もつかない手紙を。
それは彼女が自己決定をする「外の世界」に戻ったからだ。
手紙を書くことも、彼女自身の決定だ。

街の住人は「仮病」だと自覚している。
果たして本当にそうだろうか?
確かに体は健康かもしれない。
けれど、心は?
いわゆる自炊は、自己決定の連続だ。
今夜はモヤシにして節約して、来週発売のゲームを買うぞ。
これだって立派な自己決定だ。
そういうものをこの街は奪っている。
お仕着せの日常に耐えられるのは、些細な自己決定を毎日何十何百とこなす「心のスタミナ」がきれているからではないのか。
監視されて自由もなくて、それでも生活できるならそれでいい。
そんな精神状態、全く健康とは思えない。
テルテルは「リーダーの誘い」を断るという自己決定をした。
自由であることが、生活の保証より大事になった。
それこそが彼女が「街の住人」でなくなった証。
片頭痛がどうとかじゃない。
彼女の心のスタミナが回復し、「選ぶ」ことができるようになったということ。
それが街の住人の資格を失わせた。
私にはそう見えた。

で、この「リーダー」。
4~6人ぐらいの作業班をまとめてるリーダーなんだけど。
彼だけ「街にいる理由」が明かされてないんだなあ。
主人公のいる作業班は皿を並べて回収するだけの仕事を担当する。
が、その「皿並べ」には歌と振付がついていて、しかもそれがちょこちょこ変わる。
何の生産性もない作業に、効率に一切貢献しないルール。
世の中の何かを揶揄していることは間違いないだろう。

ここで私が思ったのは、仕事の中の「社会の構成員としての承認」だ。
有形無形の何かを生産し、その対価を受け取る、それが仕事。
対価の一つは社会からの肯定、承認。
その側面だけが肥大すると忠誠心を求めてサービス残業を強要するブラック企業の出来上がり。

リーダーの肥大した承認欲求もある意味では病的だ。
彼はわかりやすい病気ではないだろうが、この街から出られもしないだろう。
街という「システム」が体にしみこみ、もう分離できない。
彼自身、皿並べの複雑な振付に意味など感じていないだろう。
でも、やらずにはいられない。
もうそこにしかアイデンティティがないから。

そして物語中盤、主人公はチョコチップクッキーに依存し始める。
謎の医者と看護師、市長と秘書?も物語に絡みはじめ、人間関係が複雑化する。
とんとんにも裏切られる。
彼女の場合は、本当に「ここでしか生きられない」のだから、裏切りもするだろうが…
最終的に「私はチョコチップクッキーになる!」と言い出す始末。
実際それは無理にしても、台詞は深い。
「砕かれるにしても自分で選びたい」と。

最終局面ではチョコチップクッキーの発明者まで出てくる。
再び語られる「すべては自分次第」というメッセージ。
同じクッキーがバター優位に感じられたりチョコ優位に感じられたり。

そして、どちらの味もしない、砂のように感じられる日だってあるだろう。

私も若い頃はブラックな働き方もした。
アイデンティティがどこかにあると信じてさまよった。
今でもそうだ。
どこかにあるはずの、「自分の価値」とか「生きる理由」とか、自分の芯になるものを探し続けている。

ここにいたくない、ここでしか生きられない。
矛盾するようで、一つだけ確かな事。
こんな嫌な場所でも、とりあえず自分はまだ生きていたい。

To be or not to be?

そんな問いかけできるわけがない。
この世に自分なんか必要ないとわかった上で、生きていたいから苦しいんだ。
この街の人間だって基本的には(妊婦はともかく)、この世から「要らない」と言われる人間だろう。
それでも生きていたい。
居場所がほしい。
肯定されたい、承認されたい。

そのために「労働」というのは重要な条件だ。
社会が自分に対価を支払ってくれるという事は、それは社会からの承認だと言える。
この街では労働しない。
日々の生活保証は「対価」ではない。
それは無条件の肯定に見えて、とても不安定な状態だ。

市長が何度も語るエピソードに、「仕事をサボって電車に乗ったら巣に帰れなくなり死を待つだけのアリ」というのがある。
普通に解釈するなら、社会のルールから逸脱したら人は生きられない、という事になる。
同時に繰り返される「働きアリの2割は休んでる」という豆知識。

この街の住人は「サボって電車に迷い込んだアリ」か、「もともと計画されている2割の休むアリ」なのか。
仮病でなく、本当に病気で街に来た住人でも、同年代の人の活躍をテレビで見た日には自分が「電車に迷い込んだアリ」に思えるだろう。
単なるサボリであったとしても、堂々としていれば他人からは「もともと休みのアリ」に見えるだろう。

同じ現象も、自分がどう考えるかで違う未来へつながっていく。
これは単なるプラス思考の勧めじゃない。
自分の考えが、思考が常にコントロールできるなんて、そんな考えは傲慢だ。
私だって明日、チョコチップクッキーになりたいという考えに憑りつかれるかもしれない。

人は社会的動物だ。
他者とのかかわりなしでは生きられない。
最後の柱「自我の形成」はどんな人でも、1人では達成できない。
引きこもりが「引きこもる」と選択するためには、他者が必要だ。
この監視され自由のない街で、それでも人は人と関わり続ける。
それを無くしたらもう人じゃなくなってしまう。

リーダーはこれからも意味のないルール(歌や振付)を生み出す事でしか生きる意味を見出せない。
もし、その意味を見出せなくなったら彼はもう生きられない。
この街を一番謳歌しているように見えて、一番危ういのが彼に見えた。
とんとんは他の街で生きられないから、生きるために街の中を転々とする。
主人公はどう生きるのか。
分かりやすいハッピーエンドではなかったけれど、ラストシーンで主人公は「選ぶ事」の意味に気付いたように見えた。
そうだとすれば彼女も街を出ていくだろう。


ここまで全体的にモチーフを追ってきたけれど。
個人的に一番胸が痛かったのは、テルテルとリーダーの対比だ。
演者の年齢的にも結構な差があり、まだ道を選べるテルテルと、ここでしか生きられなくなったリーダー、という構図に見えた。
選ぶ、自己決定をする、というのは本当にエネルギーがいる。
車だって走り出す瞬間が一番エネルギー使うのだ。
飼いならされて、そのエネルギーを失ったらもう戻れない。
元々の病気(仮病)が会話に出てこないリーダー、「ここにいたくない」「自分はここにいる人間より上等だ」、そんなささやかなプライドすら折れてしまった。
(この公演、一部ダブルキャストで、もう片方のキャストではリーダーも若そうなのでここら辺の対比がどうなっているかは気になる)
年とともに、私もじわじわと「ここにいたくない」というエネルギーが失われ、「ここでしか生きられない」という諦めが優勢になってきているのを感じる。
いつか私も生産性のない無意味なルールを作ることに悦びを感じる側になるかもしれない。
それが心底恐ろしく感じられた。


ここにいたくない。
ここでしか生きられない。

普遍的な心の叫び。
それに対して、「ここをどう見るかはあなた次第よ」と突き放すのは簡単だ。
だけど、それはきっと間違っている。
「自分がどう見るか」じゃない。
「自分がどう見てしまったか」なんだ。
チョコチップクッキーを食べてみて、チョコ優位と感じるかクッキー優位と感じるか。
それは食べてみるまでわからないし、食べる前に自己暗示をかけて気分がどうにかなるもんじゃない。
まずクッキーを食べてみないと、自分の気分を知ることもできない。
人が自分の心を知るには、他者という触媒が必要。
アイデンティティは一人じゃ確立できない。
自己決定は人が人であるために必須条件で、でもその「選ぶ力」はどんな形であれ人との濃厚なかかわりの中でしか育たない。
監視社会だろうが自由がなかろうが、まず「社会」に属することがスタートライン。
疎外されたままでは人は人になる事ができない。

人は一人じゃ人になれない。

それこそがこの話の神髄だと私は思う。
ここ数年、それまでの人生の何十倍何百倍の濃い人間関係を生きてきた今だからこそ、歪んだ社会であっても社会とつながる事の大切さが身に染みた。
ボーボワールは言った。
人は女に生まれない、女になるのだ。
私はこう応える。
人は人に生まれない、人になるのだ。
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