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2019-12

傷と強さと@米津玄師と濱田祐太郎

今更ながら米津玄師にハマっている。
最初は自分から聴いた訳ではなく、確か他人のカラオケだ。
アイネクライネの歌詞が何かその時の「私に必要なもの」だったのだ。
その後、LOSERをエンドレスリピート、今はLemonを聴き続けている。

誰しも心に傷を抱えて生きている。
だけれど、その傷は2つに分けられると思うのだ。
1つは切実な痛み、自分を蝕む痛み、自分の生きる上で差し障りとなる傷。
もう1つは、甘い痛み、懐かしい痛み、痛みを感じることが一種の快感となった傷。
2つめの痛みは自分の中で再生を繰り返しながら、誰にも言わずに生きている人が大半なのではないだろうか。
これを外に出したところで、今の世の中では「ウザい」とか「かまってちゃん」と言われて終わりなのだから。

米津玄師の歌は、2つめの痛みを思わせる作りなのに、その根底に流れているものは1つめの痛みに思える。
自分を蝕む毒に体を投げ出して、そこから流れてくる血を歌にしているような。
彼の歌に浸っていると、自分の抱える1つめの痛みが、共存しがたい痛みが和らぐ気がする。
そして2つめの痛み変わったそれに、愛着を持って共存できる気がするのだ。

一番耐え難い痛みをもたらすのは、一番大切な人との別離だ。
死別であっても、生き別れであったとしても。
元々が一番大切な相手だから、痛みを紛らすために忘れるなんてできない。
いや、できてもしたくない。
だから彼の歌が必要なのだ。
甘い痛みなら共存できる。
愛する人を自分の人生の「差し障り」に変えず、ずっと抱えて生きていける。

LemonもLOSERも喪失の歌だ。
もちろんそれ以外にもいい歌はたくさんあるのだが、彼の彼にしか出せない魅力が一番あふれるのは喪失の歌のような気がする。
一体どんな人生を送った人なのだろう。
興味はあるが、私はあえて調べていない。
その方が自分に都合の良いドラマを描いて歌を聴くことができるから。

私もこの年だ。
たくさんの「喪失」を経験しながら生きてきた。
その中には純粋な哀しみだけを産むものもあった。
でも、悲しみ以上の後悔や、時には憎しみを伴う喪失もあった。
それらは今も傷として私の中に残り、時に棘として私の中に残っている。
幸せが近づいてきた時、その棘が私を刺す。
「今更お前が幸せになれるなんて、許されると思うのか」
「自分はここにいるぞ、ここにあるぞ、それを忘れるな」
その棘は私の中に新しい傷を作る。
毒を含んだ傷はじわじわと腐り、私の中で溶けて広がっていく。


後悔のない人生も、憎しみのない人生もない。
そんなことをいくら知っていても、目の前の「私の」痛みには無力だ。
立ち直るには、立ち上がるには、そんなものじゃダメだ。
傷を忘れられない、忘れたくない。
でも傷に負けてしまうわけにはいかない。
だから、傷にコーティングをする。
そしてその標本と生きていく。
そのコーティングをしてくれるのが彼の歌だった。

「あれ以来」ずっと抱えてきた傷の痛みは消えない。
私の心の奥底でしっかり根を張ってしまったそれは、もう私の一部だからだ。
だから、私の救いは痛みを消してくれることではない。
共に生きられる痛みに変えることだ。

彼の歌がヒットするのは、きっと皆私と同じなのだろう。
傷を無くすのではなく、傷を愛したい。
難しい事だけれど、本当に良い創作にはその力がある。





そして、絶対に共存できない封印するしかない傷もある。
甘い痛みに置き換える事すらできない、ただただ痛いだけの傷。
大事な人につけられた傷ではなく、不特定多数の、つまりは「世の中」がつけた傷だ。

今回のR-1ぐらんぷりで優勝した盲目の漫談師。
彼は私の傷をえぐっていった。
ネタのクオリティの問題ではない。
彼がステージに立つことそのものが私の傷を思い出させる。
もちろん、これは私のごく個人的な問題だ。
ビッグネームしかいない審査員が彼を優勝と判断した事実には一切変わりはない。

私が大勢の前で「障害者」として演説していたのは20歳から24歳までのわずか4年間。
けれど、あの時期についた傷はもう消えないのだろうと思う。
今でもこれだけ心が揺さぶられるのだから。
あれから何年経ったのか。
肌も曲がり角を曲がり、干支も巡り、初めての白髪に嘆き、年を重ねてきた。
それでも消えない。
若い頃の柔らかい心に刺さった棘はもう抜くことができない。

私があの体験で知ったことは、「可哀想」という言葉の鋭利な切れ味。
憎しみを向けられるより辛い事があるという事。
善意によって傷つくと立ち上がれないという事。
私は負けず嫌いな人間で、人から向けられた悪意や憎しみはむしろ私を奮い立たせる。
けれど、善意はダメだ。
少しずつ足元を崩されて、いつしか立ち上がる事すらできなくなる。

善意に傷つくことを繰り返すと、誰かと共に生きる事ができなくなる。
あの頃の私がそうだった。
今でこそ、自分が好きな相手の善意に限りそのまま受け取る事もできるように変わってきたけれど。
あのR-1の審査員の言葉選びに、私は勝手に過去の私の聴衆を重ねた。
そして私が勝手に傷ついた。
全て私が勝手にしたことだ。

けれど。
これだけは声を大にして言いたい。
善意にも悪意と同じぐらい、時にはそれ以上の人を傷つける効果があるという事。
そして、善意の棘が刺さるのは「弱者」が多い。
子どものうちに善意の棘が刺さった人間は、大人になってから苦しむ事になる。
その後、別の番組で濱田祐太郎が「障碍者はみんないじりOKなわけじゃない」とちゃんとコメントしていることも知っている。
私も年を重ねた。
自分の痛みを理由に彼を批判するなんて、愚かしい事と知っている。
だから、一度だけ、今これを書いたらこの思いはもう封印しようと思う。

どれだけ頑張っても、褒められても、私は「障害」が付きまとう限り幸せを感じられなかった。
私の場合は人生の中で「障害」が自分のアイデンティティ形成に関わりすぎていたんだろうと思う。
だから、彼が羨ましい。
「障碍」に触れて認められても、「自分の力」を自分で信じて、優勝を喜ぶことができる彼が。
それだけの強さと健全な心を持つことができたことが羨ましい。
私なら、絶対に喜べない。
いや、まず障碍を公開するどころか障碍をネタにしてR-1に出ようなんて思えない。

結局、勝てるのは常に「強い」人間なのだ。
彼は強かった。
ネタの良し悪しだって大事な事だ。
だけど、それだけじゃ「一番」にはなれない。
人として強くなくては。
人として、真っすぐでなくては。

「世の中」なんて変わってくれるものじゃない、とは今でも思う。
身勝手な善意で若者の心に棘を植えても、人を「可哀想」と言う悦びに浸る集団だ。
私も「世の中」の一員だけれど、悪意と毒にまみれている私が「善意の棘」を批判する資格すらないとも思う。

そんな中で、全てを笑い飛ばして、優勝をもぎ取って笑う彼は凄い。
彼の言い回しを真似するなら、「白杖で全てを蹴散らして生きている」といったところだろうか?

あの「強さ」は私も見習わなくてはいけない。
もう自分の中の棘に負けている場合じゃない。
あの決勝から二週間も経って、やっと心の整理がついて決意表明。
今でも私は充分に弱い。
けれど、強くならなくては。
年を取って、頑なになった心にこれだけの揺さぶりをかけた濱田祐太郎。
やっぱり彼は凄かった。
これからテレビで見られる日々が楽しみだ。
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心の成長痛@「恋は雨上がりのように」

これは、1人の女性の闘いの話である。
その女性、Kは就職先をやめ、お笑いの舞台に立つようになった。
どうにも下手だが、お笑いに出会ってからのKは会うたびに別人になっていく。
Kがテレビに出てくることなどないとわかりつつも、私はKを取材し続けてきた。
その一環でKの出たR-1も見に行っている。

KはR-1で散々な出来だった。
それは予想どおりの結果ではあったけれど、なんとなく気まずくて、私はR-1の日以来Kと疎遠になっていた。
季節は巡り、またR-1の開催が発表された頃、久しぶりにKから連絡がきた。
たった一言、「呑みましょう!」。
漢字のチョイスからして穏やかではない。
しかもKは私を家に招くという。
これまで自分の過去すらなかなか話さなかったKと同一人物とは思えない、ハイテンションなメールに私は面食らった。
もう酔っぱらっているのだろうか?
とりあえずパソコンのメールでは連絡しづらい、とSNSのアカウントを交換し、Kの最寄り駅だという駅に向かう。
手土産はKリクエストのワインと、パックされた生ハムとチーズのセット。
Kの指定した銘柄はコンビニにはなく、ターミナル駅のちょっと高級なスーパーによる羽目になった。
意外にもKは酒に詳しく、Kのお気に入りの「産地が違うからボジョレーではないけど、一番コスパのいいヌーヴォー」もなかなかのお値段である。

Kの住む部屋は一般的な間取りのアパートとしか言いようがないもので、私は少し落胆した。
「専門職をやめて、ド下手な芸人に転身したアラサー女性」の部屋なのだ、もっと衝撃的な貧乏長屋であってほしかった。
そんな私の不満など気付かないKは座卓に総菜を並べていく。
メインはトマトソースのかかったチキンソテーのようだ。
他にはカボチャのサラダにベーコンとキノコのパスタ、スティック野菜のピクルス。
随分と手が込んでいる。
もし私が来なかったらどうするつもりなのだろう?

「さぁ、食べましょう」

今日のKは威圧感がある。
酔わせないと話は引き出せないだろう。
しかし私は酒が強くない。
私が先につぶれないといいのだが。

そんな心配は全く必要なく、Kはほとんど1人でボトルを空にしようとしている。
砕いたアーモンドが入ったカボチャのサラダも、野菜のみじん切りのたっぷり入ったトマトソースのかかったチキンソテーもなかなかの腕前だ。
私はとりあえず食事に専念することにした。
みじん切りは面倒なので、私はあまり自炊でトマトソースなんて作ったことがない。
Kは料理好きなのだろうか。

「みじん切りってストレス発散になりますよね」

やっと酔って饒舌になってきたKが話し出す。
第一声からして不穏な空気である。
先ほどまで美味しかった料理も、Kの怨念のこもった「みじん切り」入りとなっては食欲もわかない。
私は黙って聞き手に回ることにする。
ただ、ここまで酔わないと話してくれなかった話を、Kは原稿に使うことを許してくれるのだろうか、と不安に思いながら。
さすがのKもワイン1本は飲み過ぎなのだろう。
話はあちこちに飛んで理解しづらい部分も多い。
だからこれは私がかなり整理をしたものである。




私はずっと1人でいようとしてきた。
そうしないといけないと思ってきたから。

―それはなんで?

私は人に好かれない。
私は人の気持ちがわからない。
私の感じ方は人と違うから、私の思う「人のため」は相手のためにならない。

―そんな決めつけなくてもいいのに。

決めたのは私じゃない。
医者が、カウンセラーが、教師が、両親が。
子供の私にとって「偉い人」が私はそうだっていうんだから。
まだ義務教育の子供にとって、周囲全員の大人の合意は絶対だった。
反抗することはできても、覆すことはできなかった。
だから私は1人を選んだ。
少しでも周りに与える不快感を減らすために。
生きていても許されるように。

―もっと相手を信じることはできなかったの?

私が信じてないのは自分だけ。
相手の事は信じてる。
周りの人はいい人だから、優しい人だから、私の事嫌いなのに酷い態度をとらないでくれている。
だけど普通の人なら気付く程度の嫌がってる空気だけ出してるはず。
私はそれに気付けない。
だから私は嫌われたってわかる前に離れないと。
分かってからじゃもう遅い、その時点でたくさん嫌な思いをさせている。

―でも私にはたくさん話してくれたじゃない。

ライターさんは好きか嫌いかの世界の人じゃなくて、役に立つか立たないかの世界の人だから。
私が役に立たなくなったら離れてくれる人だから。
だからそれまでは大丈夫。

―1人でいるのが好きなの?嫌だった?

好きとか嫌いとか考えたことなかった。
そうするしかなかったから。

―でもKは引きこもりやニートじゃないよね。働いてたら嫌でも人とかかわるじゃない。

だから全部「閉じてた」。
トリビア的な事とか、相手の話に相槌とか、決まった形のある会話はするけど、自分の事は話せない。
信用とかそういうことじゃなくて、話し方がわからなかった。
「閉じてた」間もずっと社会には出てたから、いろんな言葉や気持ちをぶつけられてる。
だけど「閉じてる」時って人の善意は伝わってこない、悪意は閉じても入り込んでくるのに。
なんだっけ、こういうの。
昔理科でやりませんでした?

―理科?

あ、そうだ。
半透膜と浸透圧。
私はカラッポで外は濃い「感情」が渦巻いてて、だから閉じても膜を張っても外から気持ちが流れ込んでくる。
だけど膜の穴は小さいから、大きな気持ち(善意)は入れなくて、小さな気持ち(悪意)だけ入り込んでくる。


ここでKは一旦口をつぐんだ。
もうこの時点で話しにまとまりがない。
ただわかるのは、Kが「自分は人と違う」という宣告を受けた結果歪んでしまったという事。
そしてその歪みを周囲の悪意が増幅してきたのだろうという事。
Kが宣告されたものは医学的な、もしくは正式な、病名だ。
それは前にKが教えてくれたが、Kは病名を公表しないで舞台に立つと決めている。
だから私もKの意思を尊重し、それが何であるかは言わない。
しかし、その病名の少年の犯罪が相次いだ時期がKの青年期と重なっていることを補足しておく。
その時期、インターネットでのその病名のバッシングは酷かった。
「隔離しろ」が穏健派というレベルである。
過激派がどんなものかは口に出すのもはばかられる。
Kはその時期インターネットにどっぷり浸っていたらしい。
当然、バッシングも目にしている。
自分の同朋が死を絶滅を望まれている有様を。
おそらくそれがKの「生きていて許されるか」という発言に繋がっているのだろう。

しばらくの沈黙の後、Kは再び口を開いた。




だけど、私がずっと「閉じて」生きてきたのを変えたのはお笑いだった。
芸人さんは貪欲で強引でわかりやすくてパワフルだった。
私は「モテたい」という気持ちがわからなかった。
口説かれるのをかわすって世の中で一番面倒な事だと思っていたから。

―今はどうなの?

メイクや髪型を頑張った日、バイト先の運送屋のおじちゃんに褒められるとテンションがあがるようになったのに最近気づいて。
ちょっと「モテたい」に近づいたかな。
だけど、それは「普通に近づいた」って良い事だけじゃなくて。

―悪いこともあったの?

彼氏と別れた。

―え?

あ、話してなかったかも。
私、結構長い事付き合ってた彼氏がいて。
付き合い始めたころはお互い似た者同士っていうか、恋愛のスキルが同じぐらいっていうか。
だけど私が変わっちゃったんだと思う。
元彼が「気遣いをしない」事が「裏表がない」だと思ってた。
元彼はそばにいてくれてる限り私を好きなんだと思うようにしてて、言葉を見てなかった。
今となってはあの人の事見てなかったのと同じだって思うけど、でもあの頃は本当にあの人の事好きだった。
どんなに無神経って言われるような言葉でも、「元彼の言葉は全部『I love you』って理解する」って決めてたから平気だった。
そういう関係を「長年一緒にいる夫婦みたいでいいな」って思ってたし。
でも、お笑いの世界にどっぷりいるうちに、今まで見たことないような生々しい人の気持ちに触れてるうちに、それは違うと思うようになってきた。
私の知らない複雑な感情がたくさん流れ込んできて、それは私を変えてしまった。
私だけ変わったから、一緒にいられなくなった。

―喧嘩したの?

最初は話し合おうとした。
「何を言っても『I love you』」って結局何も話してないのと一緒だと気づいたから。
でも上手くいかなかった。
私は自分は変わっても、まだ人を変えられるほどの力はなかった。
半年ぐらいかけてじわじわダメになった。

―彼氏と別れるぐらいなら、変わりたくなかった?

そうは思わない。
私は変わらなきゃいけなかったとは思うし、変わったからこそ一緒にいられる人たちもいるから。
今だって舞台に立つのを休んでいるけど、支えてくれる人がいる。
彼氏とかそういうわかりやすい繋がりじゃないのに、支えてくれる。
こういう人ができたのは私が「閉じる」のをやめたから。
あのまま「閉じて」たらきっと今はなかった。

―新しい彼氏は欲しい?

今はダメだと思う。
気持ちだけいろんな種類が増えて、それがまだ説明できないものの方が多くて。
今誰かと付き合ったら、自分に説明できない気持ちをどうやって話したらいいかわからない。
だからきっとちゃんと話せなくて相手を傷つけてしまうから。





Kの話が文章に書き起こせる状態だったのはここまでである。
ここから先は本当に酔っ払いの繰り言としか言いようがない状態だった。
そして終電を逃した私はKの横で眠るはめになる。

後日、この日の事を記事にしたいと頼んだところ、なんとKはOKだという。
「この『K』が私だってことは元彼ぐらいにしかわからないでしょうから」と。
しかしこの支離滅裂なドキュメンタリーだけで買ってくれる出版社などあるわけもなく。
私は途方に暮れて、一か月ほど記事を放置していた。


その間、いろいろKと結び付けられそうなトピックスはなかったわけではない。
有名なミュージカルや大ヒット映画も見る機会があった。

しかし私の目を引いたのは「恋は雨上がりのように」という漫画であった。
これは仕事で読んだものではない。
前髪が伸びすぎてやむを得ず飛び込んだ美容院に、この漫画は置かれていた。

ヒロインはケガで陸上競技から遠ざかり、バイトにいそしむ高校生。
バイト先の店長に恋をしているが、店長はずいぶんと年上、有体に言えば「オッサン」である。
しかしこの漫画は、オッサンが若い女の子に愛されるというよくある男のためのファンタジーではなかった。
メインとなるヒロイン「あきら」の物語は痛みを伴うストーリーだし、店長はヒロインの気持ちに応えることなく6巻まで話は進む。

あらすじを追っていこう。
ヒロインはケガの治療はひと段落しても気持ちは全く癒えていない日、土砂降りの雨の中で店長の優しさに触れる。
それは瞬時に恋に変わり、ヒロインはその店でアルバイトを始める。
本気でやってきた陸上競技をできなくなった直後であるとは思えないほど、生き生きとバイトに勤しむあきら。
季節のイベントが起きたり、サブキャラの恋が進行しつつ、ゆっくりと物語は進んでいく。

転機は6巻で訪れる。
あきらの前に、彼女に憧れて同じ高校を目指した少女が現れる。
少女もまた、あきらと同じケガを経験し、それでも陸上競技に戻ってきたという。
このシーン以降、あきらが目に見えて不安定になっていく。
突然バイトのシフトを増やそうとして、店長に心配される6巻最終話。
ここでの店長への態度はもはや八つ当たりである。

しかし、この変化は決して悪い事ではない。
バイト先の店長への態度としては大問題だが、あきらの成長にとっては避けて通れないポイントだ。
あきらは一旦陸上競技から逃げて、目をそらして、その間は一見安定していた。
陸上を本当にこのまま辞めてしまうのか、自分と向き合って、いや向き合わされて、前に進み始めた事で歪みが生まれ不安定になっていく。
店長はその不安定さの原因を見抜いていて、あきらを責めずに口をつぐむ。
一回り、いや二回り上でバツイチの店長は、彼氏となってあきらを支えることはできないと自分を律している。
そしてこの話より前の段階から、店長はあきらの恋心を燃え上がらせているものが何かを察している。
陸上競技から「逃げたい」という不安と逃げていることによる罪悪感だと見抜いている。
それを象徴するのが忘れ物をした客を追いかけた時の話をしているシーンだ。
店長は何の気なしに「もう追いかけなくていいよ」と言い、あきらの表情は微妙に変化する。
それを見て店長をまた顔を曇らせる。
大人である店長は、逃げたくなる気持ちも、逃げているからこそ何かにのめり込む気持ちも、分かっている。
分かっているから口をつぐむしかできなかったのだろうし、むしろその方があきらは自分で答えを導き出すだろう。

このあきらの感情の流れは、この前のKとよく似ている。
前に進むことが即座にいい反応を産むわけではない。
向き合って必死に足掻いているからこそ、不安定になるものだ。
そんな事に思い至って、急に背が伸びだした思春期の頃、膝に成長痛が起きたことを思い出す。

成長は痛いものだ。
成長期は不安定なものだ。

大人になるにつれ、忘れていくあの頃の記憶、感覚。
不安定で、理屈に合わなくて、いらだちと悲しみを繰り返す。
怒涛の変化を乗り越えて大人になる時間。
Kは今それを体験している。
「閉じて」過ごした期間の遅れを取り戻そうと必死で向き合っている。
今周りでKを支えている者たちは決して大人ばかりではないとKは言っていた。
10才近くも年下の人間にまでなりふり構わず頼っていくK。
間違いなく、Kは変わった。
その変化に今追いつけないでいることが納得できるほどに。

Kはかつて「心の中の澱をお笑いで洗い流している」と言っていた。
しかしそれは真実を一部しかとらえていなかったと私は思う。
心の中を洗い流したお笑いという「水」はKの中に沁み込み、Kの中の硬く凝り固まった部分をほぐしていった。
新たな「水」が常に流れ込んでくることで、心の中に流れができたこともまたKの根幹を変えていくだろう。



師走も終わりに近づき、街がクリスマスイルミネーションから正月飾りに変わる頃。
KからSNSのメッセージが来た。
再びライブに出るという知らせだ。
Kは闘い続けている。
足元がぐらつこうとも、前に進まなければならないと自らに言い聞かせて。
転んだときに支えてくれる誰かの存在を信じて。
私もKの「支え」の1人にならねばなるまい。
あのおっかないトマトソースを二度と味合わないで済むように。

特別でない彼女と私の物語@実録長編エッセイ

私は特別な存在ではない。
この事実を認める事が私のスタートラインだった。


文を書くのが好きな人間というものは、多かれ少なかれ目立ちたがりで自分を「特別な人間」だと思いたいものだ。
私も例外ではない。
しかし、私は凡人だった。
ハッキリ言って「平均点以下の人間」だ。
そんな私にとって、書き続ける事は自分との闘いである。


私は面白くない。
私は可愛くない。
私は独創的じゃない。
私は論理的じゃない。


それを自覚したまま、その自分を隠しながら、さも面白くて賢い人が書いているかのような文を書こうとする。
世の中には本当に面白い人も賢い人もいるのだから、そんな試みは当然失敗に終わるのに、それでも足掻き続けてきた。


しかし、なぜか私の周りには「選ばれた人間」が多く集まってくる。
理解しがたい事に彼らは私を彼らの仲間だと誤解しているのだ。
選ばれた特別な彼らに仲間だとみなされる度に、私の中のどす黒い思いは肥大していく。


どうして私は特別ではないのか。
そんなモヤモヤを抱えた時、私は知り合いのKという女性をカフェに呼び出してとりとめもない話をする。
Kはごく普通の進学をし就職をし、それでいながらある日突然そのレールを飛び降りた女性だ。
私がインタビューする相手のほとんどは選ばれた人、特別な人だが、Kは違う。
Kは私と同じ凡人だ。
しかし、Kはそのままでいる事を良しとしなかった。

Kは今、アルバイトをしながらお笑いライブの舞台に立っている。
今日はそのライブの様子を一日取材する。
と言ってもKに張り付くわけではなく、お笑いライブを開催しているライブハウスへの取材である。
最近急にテレビに出てくるようになった漫才コンビが下積み時代よく出ていた小さなライブハウス。
そこにKが出るというので、Kを通してそのライブハウスのオーナーにアポを取り、私はKの事は「ついで」という感覚でライブに出向いた。

ライブハウスのオーナーへのインタビューはライブの後なので、オーナーに会釈した後すぐに私は客席に向かう。
今日は12組の出演者がいるというそのライブは、動画サイトにも同時配信されているらしい。
それなら生で見に来なくてもいいのでは?と思いながら客席を見渡す。
客席と言っても、劇場のようにフカフカのクッションのある椅子が作り付けてあるわけではない。
白いプラスチック製の椅子を数人の芸人が開場前に並べるだけである。
こんな状況でも、席には数人座っており、その中の一人の中年男性はタブレットで写真を撮っている。
彼らがこのライブハウスに辿り着くまでにもドラマがありそうで、話を聞いてみたい気はするが、もうライブが始まるようだ。

まず出てきたのは香盤表を持ったMCの芸人。
出演者の紹介やらライブを見る上での諸注意やら、慣れた調子で説明していく。
説明は上手いのだが、どう見ても有名な独裁者を模した軍服姿の大男の「営業スマイル」には違和感しかなく、私はKの出番すら把握できなかった。

暗転し、芸人の名前が呼ばれ、ライブが始まる。
どうやらライブは数組ごとにブロックに別れているらしい。
冒頭の大男が再び出てきて、出演者とトークを始めた。
まだKは出てこない。
ネタの間は薄れていた違和感が、トークになってまた強くなる。
傷み切ったアフロヘアのカツラで体操着姿の男と、軍服の大男が並ぶ。
その画面だけ切り取ってもおかしいのに、どうもこの2人は昔なじみらしい。
どこにどんな接点があってこの2人は仲良くなったのだろう。
ネタよりも裏の人間模様の方につい意識が向いてしまう。


2ブロック目、やっとKのネタである。
Kは真っ青なアイシャドウで顔を汚して、ナンパされたと勘違いしてマシンガントークをする女を演じている。
はっきり言って、面白くない。
しかし、Kは真剣そのもの、セリフを噛んでも笑いもしない。

Kの出番が終わった後、楽屋を見に行った。
楽屋と言っても袖に付属する3畳ほどの空間である。
そこには芸人たちの荷物が散乱しており、さっきコントで誘拐犯を演じていたメガネの男が着替えをしている真っ最中だった。
私が入ってきたのも構わず男は下着姿になる。
思わず目をそらすが、ふと視線を戻すとKは着替えを見ても全く動揺していない。
MCをしていた軍服の大男と何やら熱心に話し込んでいる。
ダメ出しでもされているのだろうか?
あの汚した顔で真剣な表情をしているKはネタよりよほど面白い。
そんな失礼なことを考えながら見ていると、Kが私に気付いた。

「客席にいらっしゃってるの見えましたよ。
ありがとうございます」

そして軍服の大男の方に向き直り、私を紹介する。
すっかりKは後輩モードだ。
意外にも礼儀正しい軍服の大男は、今回の取材のきっかけとなった芸人とも昔なじみらしい。
このライブハウスで自分も毎月ライブの主宰をしているのだ、と荒いコピーで刷られたチラシを何枚も渡された。
そしてその大男は私の取材の目的を聞くと、彼らの事を話し出した。
彼らが大事な時に遅刻した話、バイトではダメな奴だという話、衣装に無頓着で私服も拾った忘れ物を平気で着ているという話、いずれもテレビでは語られていないエピソードを滔々と話す。
思わず聞き入っていると、ライブのエンディングが始まるという事でKも大男もステージに戻っていく。
ステージと言っても12組、実質15~6人が乗ればぎゅうぎゅうというサイズの代物ではあるのだが。


ライブが終わり、Kがオーナーに私を紹介する。
オーナーはメガネをかけた痩せた関西弁の男で、なかなかの野心家のようだ。
自分も芸人でもある、と言いながら取材に応じてくれたが、彼の人当たりは芸人というよりは経営者のそれにしか見えない。
それほどライブハウスの経営者が板についている。
30分ほど、件のコンビについての話を聞き終えた。
するとライブハウスの掃除を終えたMCの大男を含めた数人の芸人がこちらにやってきた。
なぜかそのままオーナーもKも含めた全員で食事に行くことになってしまった。

連れていかれたのは昔ながらの中華料理屋で、流暢なのだがどこか怪しげな日本語を話す中国人が店員をしている、という店だった。
Kも慣れた調子で定食を頼んでいるから、おそらく彼らの行きつけなのだろう。
私はKに聞きたいことがたくさん溜まっているのに、Kは芸人たちとの会話に夢中である。
仕方ない。
Kと話すのはまた後日にしよう。




数日後、私はKをいつものカフェに呼び出した。
昨今のKは逞しくなり、私の支払いであるこのカフェではコーヒーだけでなくスイーツもちゃっかり頼んでいる。
今日もKは新作だというリンゴのケーキを食べつつ、私の話に相槌を打つ。

ここ数か月、Kはあのライブに続けて出ているらしく、軍服の大男と食事に行くのもあの日が初めてではなかったという。
それを聞いて、私はKを初めて見た日を思い出す。
あの日のKは全身で他人を拒絶するオーラを出していた。
私は比較的親しみやすい容姿だと自分を評しているが、その私ですらKの懐に入るのは苦労した。
それが今のKはどうだろう。
いくら礼儀正しく話が上手かろうとも、素性の怪しいあの芸人たちと当たり前のように食事に行っている。
まさかこんなにKが変わるとは思わなかった。
だから私は取材になどなりえない無名のKとこうして今日もカフェにいる。
初めてKを下北沢で見かけて、もうすぐ一年が経とうとしていることに改めて驚き、そしてこの奇妙な縁に感謝した。
そんなセンチメンタルな気分に浸りながら、ケーキを食べるKをぼんやりと眺めていた次の瞬間。
私は抹茶ラテを吹き出しそうになる。

「私、R-1に出るんですよ」

確かに芸人をやるのならR-1には出るだろう。
あれはテレビ放映される、芸人たち、特にピン芸人たちの登竜門。
しかし、ここにいるのはKである。
この前、あの薄暗いライブハウスでどうしようもなくつまらなかったK。
1年前までお笑いなど全く縁のなかった、K。
勝てるわけがない。
間違いなく1回戦で負けるのに、出てどうすると言うのだろう?
出場回数を重ねたところで何かアドバンテージがもらえるわけではないのだから、少しは実力を身に着けてから出ればいいのに。
けれど、Kは私の言いたいことなど充分に承知している、といった風情だ。

「勝てないなら、出てもしょうがない。
宝くじみたいに運だけでどうにかなるものじゃないですもんね。
だけど、こっち側と向こう側って見えるものが違うんです。
私はもう少しだけ、向こう側から世界を見てみたい。
それだけですよ」

向こう側とこちら側、というのはおそらく舞台の上と客席を指すのだろう。
随分芸人顔が板についてきているとはいえ、Kにとって「こちら側」はまだ客席。
そんな生ぬるい覚悟だからこそ、身の程知らずなチャレンジができるのだろうか。

私の思いをよそに、いつになく訥々とKは語り続けた。

「やりたい事」のない自分にとって、芸人たちは見ているだけで羨ましくて妬ましくてしょうがない存在である事。
自分の中にこんなにドロドロした澱があったと、彼らを見るまで気付かなかった事。
やっと自覚したこの澱と向き合い、きちんと消化しなければ前に進めないと感じた事。

「ネタを書き、人前でそれを演じる。
 すると少しだけ澱が溶けて体の外に流れていくんです。
 本当に少しずつ、少しずつ。
 目に見えて減っていくわけじゃないけれど、なにせこれは30年分ですから。
 時間がかかっても、なんとかしますよ」

心の中の澱を出す作業の大切さは私も身に染みている。
私にとってはこうして書く事がそうだ。
そして、これをしなければ私は生きていけない。
Kにとってはお笑いが私の「書く事」に相当するのだろう。

その気持ちは理解した。
しかし、Kは私と大差のない年のはずだ。
ふらふらと夢を追えるような若さはもうない。
それでもKは続けるのだろう。
生きていくために、自分の中にたまった澱と向き合うために。



私は特別ではない。
それが悔しくて、特別な人選ばれた人が妬ましい。
けれど、作品を作るのは選ばれた人の特権ではない。
少なくともそう信じているからこそ、私は書き続けることができる。
そして私の手帳には年末に○がついた日付がある。
その日はKがR-1に出る日だ。
「こちら側」からKの大舞台を私は見るつもりだ。
Kが何かを見つける瞬間を、私は見届けたい。


選ばれなかった凡人にも物語はある。
だから、凡人である私は足掻き続ける凡人の物語を見届けて、それを世の中に送り出す。
選ばれた天才に嫉妬している暇などない。
そう思うと、私の心の中の澱も少し溶けて流れたように思えた。






文:朽葉矢子








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黒歴史…@JK時代に書いた小説を公開しますwww

昔書いた携帯小説が壮絶な黒歴史な件。
以下本文。
やばいわ…このセンス。
黒字が原文、赤字が今の私によるツッコミ文w





第一話:キウイ
タイトルがオチというかラストシーンそのまんまだよ、ネタバレとかそういうレベルですらない…

今年も夏が来て、また光のことしか考えられない日々がきた。
ずっと好きだったのに言えなかった僕の初恋。
光って人名だったのね、紛らわしい
光は名前の通りキラキラした物が好きだった。
雪、蛍、霜柱、携帯だって爪だって綺麗にデコられてた。
きらきらするモノの羅列がおかしい件。
光の一番のお気に入りは花火。
近所の公園で、入江の向こうの町の花火大会を小さい小さいと文句言いながら見たり。
この小さな町に初めてできた都会のお店…ドンキで得用パック買ってみんなで騒いだり。
「都会のお店」ってwドンキの前にコンビニとかファミレスができるでしょうに
高校でこの町を出たら大きな花火を見たいって言うのが光の口癖で、花火大会の後だけは普段やらない勉強もして。

けど、やっと町を出られる受験の年。
中三って事?回りくどい
光はこの町にいなかった。
1月に光は入江の向こうの町の病院に入院した。
これは中二の1月て事ね、わかりづらいわ
その時知った、あの町までのバス代はたった百円。
中三までバスに乗る機会がないってどんな引きこもり。
あの町はそんな遠い世界じゃなかったこと。
僕らは高校生にならなくても花火大会の会場まで行けたってこと。
まさか友達もバス代知らなかったの?この町の子は買い物や習い事や部活で町の外に出ないの?
光の親は娘が花火大好きなのにたったバス代100円の隣町まで連れてってもくれないの?
というか隣町の花火なら結構大きく見えるよ?

だけど遅かった。
弱っていく光が僕は怖かった。
だからお見舞いは一人じゃいけなくてさ。
誰と行ったの?クラスメイトと?
一人で行けば…告白できたのに。
…がウザイ

僕らが三年になる頃光は病室を出られなくなって、普通の食事も食べなくなった。
たった2か月で進行早すぎじゃない?何の病気?
果物なら食べるのよ、っておばさんが泣いた目で笑った。
気の利いたこと言おうとしなくてよろしい。普通に「泣き腫らした目で笑った」と書け。
6月になって、光は病院の屋上から花火大会が見えるはずって言い出した。
見えるだろうね、同じ町だからね
花火大会までに退院は無理だけど車椅子ぐらい乗り回してやる!と、強気に、だけど妙にリアルな目標を立てたっけ。
車いすも乗れないような病状なの?ていうか1人でお見舞いにいけなかったって上で言ってたけど、1人で行ってない?
けど6月の終わり、光は急変した。
むしろよくそこまで生きてたよ、感じに見えるけども。
おばさんから電話で光の急変を聞いて、慌てる僕におばさんは「光を心配させたくないから慌てず普通にお見舞いにきて」と言った。
病状が全く伝わってこない。ていうか「僕」は告白してない=彼氏じゃない、1クラスメートのしかも男子に危篤の時にお見舞いさせるのか?
だから僕は次の日、学校の後に初めて一人で病院に向かうバスに乗った。
お見舞いには花か果物、花は女子が持っていくだろうから僕は果物にしよう。
急変したって危篤って事でしょ?女子もお見舞いにって、そんなにぞろぞろ行くなよ
そう決めて店に入ったけど僕の小遣いは足りなかった。
キウイとバナナだけ、ピンクのリボンつきバスケットに入れて持って行った。
バスケットのリボンの色とか…こういう無駄な描写が多いなあ。
この状況で花も果物もおかしいと思うけど。

でも光は集中治療室にいた。
急変を知らせる電話でその事聞かされてなかったの?
あれじゃキウイもバナナも食べられない。
その状況で感想それ?
けど、おばさんはキウイの皮をむいた。
どこで?まさかICUの中で?
お見舞いにもらったのよ、と。
ICUの中だよね?コレ?
「小さいね…高校生になったら、もっと近くでもっと大きな…」
肝心の部分を省略するな
「失礼よ、せっかくのお見舞いなのに」
この状況でお見舞いのキウイが小さいと文句言うわけないのは「おばさん」だってわかるだろう。
食べられないんだから!
そもそも食べられないのになぜ剥いた。
ていうかICUに入ってる病人のうわごとに対する対応に見えないんだが

おばさんは光の言葉がわからなかったみたいだ。
確かにキウイじゃ、公園から見える花火より小さかった。
どうやらキウイの断面を打ち上げ花火に見立てている模様。
皮をむいた後輪切りにしてたんですね。
…寒い!



今日は光の命日。
今年も僕はキウイを買って帰る。
あ、はい、そうですか。買えば?
ラストがコレって…
結局今「僕」は何をしているんだ?
恋人はできたのか?
登場人物の人格が誰一人として伝わってこない…








次、もう一本あるのよ。
2本目もまた寒い…
背伸び感が半端ない。






タイトル:リンゴ


私は昔からリンゴが好きだ。
食べるのも、絵を描くのも、ウサギさんにするのも。
リンゴの絵を描くのが好きって…絵を描くのが好き、じゃなくて?
ウサギリンゴは小学校にあがる頃にはもう自分で作れたぐらい大好きだ。
そして必ずウサギリンゴはお尻から食べるのが習慣になっている。

初めての彼氏、陽介に作った手作り弁当にもウサギリンゴを入れた。
いくつの時の話?
「お尻から食べてあげてね」って声をかけたら、陽介はその時食べていた卵焼きを吹き出しそうになっていた。
それでも陽介はウサギリンゴをお尻からかじってくれた。
陽介とは二年付き合った。
唐突に別れるし。

春紀は鼻で笑ってこれみよがしに頭からかじった。
それで別れたわけじゃないけど、春紀とは半年も持たなかった。
良かった、ウサギリンゴの食べ方で別れた、なんて言われたらさすがに当時に私の頭の異常を疑うわ。

「リンゴなのに頭とかお尻とかなんだよ」と笑われたり、「わかったわかった」と半ば呆れながらもお尻からかじってくれたり。
ウサギリンゴはいつもその男の本性を垣間見せてくれる。
暴力的な人、穏やかな人、浮気者、束縛家…
いったい何人付き合ったのよ?
後から思い返すとストンと腑に落ちる。
だけど私はウサギリンゴで男を試す気になれない。
そんな道具にするには私はあまりにウサギリンゴを愛している。
ウサギリンゴを愛しているwwwwもうねぇ…

そんな時幸司に出会った。
幸司は職場の新人で、お世辞にもかっこいいとは言えない。
で、現在この主人公はいくつなの?
見た目も中身も、体育会系の部活一筋の高校生がそのままスーツを着たような男。
このころの男の描写はどれもひどいが、これは中でもハイレベルな酷さ
好きな食べ物は牛丼とカレー、嫌いな食べ物はシイタケと納豆。
さすがにこれは男性に失礼だろうよ
昼食はいつも会社の側の牛丼屋、野菜を食べなくてもこんなに健康な人間がいる事に私は驚いた。
何に驚いてるんだwww
牛丼屋にも朝は納豆の入った定食がある、なんて話を初めて聞いたのも幸司からだ。
この男に聞かなくても店の外にメニュー貼ってありますが。
いかにも不満げに、でも底抜けに明るく話す姿に温かい苦笑が込み上げた。
出た!このちょっとオシャレな言い回しをしたい病気。何「暖かい苦笑」って。ムズムズする。
多分その瞬間私は幸司を好きになっていた。
好きになった瞬間ぐらい自覚してください。
いくら元気そうでもさすがに野菜も果物も無縁な生活では体が心配で、私は職場に3個分24匹、今までで最多のウサギリンゴを持ち込んだ。
さすがに、の位置がおかしい。
ウサギリンゴを24匹、朝からどんだけ暇なの?
今までで最多って、常日頃から自分の分以上のウサギリンゴを職場に持参してるの?
あだ名はウサギリンゴちゃんなの?
というかコイツに何個リンゴ食べさせる気だったのか、このリンゴは何人分のつもりなのか…
ツッコミどころしかないこの一文。

お尻からかじってね、と言おうとした瞬間、幸司は丸ごと口に放り込んだ。
8分の1のくし形のリンゴを丸ごと、ねえ…職場の先輩の前で?行儀悪いなあ。
そんな人は今まで見たことがなかったし、私はすごく驚いた顔をしていたはずだ。
そりゃ驚くよね、行儀悪すぎ。
だって幸司はリンゴを飲み込んだ次の瞬間「あ、スミマセン」と言ったから。
驚くところ、そこ???
でも私はなんだか嬉しくて、あれが一番正しい食べ方に思えた。
あ~あ~恋は盲目。

「何笑ってるんだ?」
唐突な場面転換。
どうやら今までは回想で、ここから今の描写になる模様。

「初めてあなたにウサギリンゴを作った時の事を思い出してたの」
さっきのセリフな行儀の悪い幸司くんのセリフだったようです。
「一口で行くのはがっつき過ぎだったかぁ」
がっつき過ぎというより行儀悪い。
「ううん、ウサギもあれが本望よ」
は?何が?
ウサギも本望ってウサギリンゴがウサギじゃなくてリンゴです。
ていうかこれで話し終わり?
ラストシーンは何がどうなってるの?
幸司とやらとは結婚して夫婦の会話なの?
つ~かいい女みたいな扱いしてるけど、このヒロイン相当電波だよ?
話の冒頭で何歳でラストで何歳なのかも明かされてないけど、結構付き合った人数も多そうだな。
いろいろとヤヴァい女だ。







いやあ、ひどい…

このころより少しだけ進歩しているはずの今の私だけど、これを添削してまともなストーリーに直すのは確実に無理。
もはや笑うしかない…

食べ物の記憶@他人のおにぎり問題にまつわるエッセイ

食い物の恨みは恐ろしい。
そんな言い回しがあるが、食べ物の記憶というのは勿論恨みばかりではない。



美味しいものを一緒に食べた温かい幸せな記憶。
不味いものを一緒に食べて怒りを共有した記憶。

「誰かに食べさせてあげたい」、とか「誰かと食べたい」という思いは自覚している愛情以上にストレートな愛の発露だ。
もしあなたが料理をするのが好きな人なら、スーパーに行けば今自分が一番大切に思っている人が誰かわかる。
旬の野菜や魚を前にして、それを使って料理を振る舞いたいと思った相手があなたにとって一番大切な人だ。


私自身も、食べ物にまつわる記憶はたくさんある。
私は二十歳の頃に恋人を病気で亡くした。
彼が弱っていく間、食べられたものが食べられなくなっていく姿を目の当たりにした。
一緒に食べられなかった旬の食材たち…筍、鰆。
それらをスーパーで見かける度、半ば条件反射で彼の事を思い出すのだ。

しかし、それはいつまでも続かない。
良くも悪くも時は人を変えていく。
数年、いや十年近くの時を経て、私にも新しい恋人ができた。
彼に弁当を作る時は至福の時…
そして季節は巡り、昔の恋人の命日が近づく。
スーパーで筍を目にして考えるのは、今の恋人の好みに合わせたレシピばかり。

この時初めて、私は亡くなったかつての恋人がいつの間にか私の中で過去になっていた事に気付いた。
「今の彼だけを見る!」なんて大上段に構えた決意をした訳ではない。
一緒に食事をとる、私の作ったものを「美味しい」と言ってもらう。
そんな些細で幸せな小さな記憶は、死別という大事件をも風化させる力を持っている。

と同時に、心を病んだ私の父の不規則で不健康かつ予測不能な食生活は母と私の悩みの種である。
ダイエット宣言をしたその日の晩にポテトチップスで晩酌しシメにカップラーメンを食べたりするのだから始末に負えない。
そんな父でも父である。
父でも食べる健康的なレシピは日々増え続け、私はそろそろ本が出せそうだと苦笑いで撮りためた料理の写真を眺めている。








かように手作りの料理というのは愛情が詰まっている代わりにさまざまな問題も引き起こす存在だ。
その一例がネットニュースに掲載された「他人のおにぎり問題」である。


昨今、「他人の握ったおにぎりは嫌だ」という人が増えているという。
それは単なる潔癖症なのだろうか?
私はそうは思わない。

この場合の「他人」はほとんどの場合「家族より外側にいる人」程度の意味合いだ。
職場の同僚、ママ友、姻戚ぐらいの距離感である。
さすがに初対面の他人の手作りは衛生面を考えて怖くなるのは理解できる。
ただ、それより近い、他人ではあるがある程度の関係性の出来上がっている相手のおにぎりも嫌だという事。

それはパーソナルスペースの問題と言ってもいいだろう。
「ここまでなら踏み込んでもいい、ここから先には来ないでほしい」
そういった線引きの中で空間的なものをパーソナルスペースと呼ぶ。
他人のおにぎり問題も要するにこの線引きの問題である。


問題となるのは、「他人のおにぎりは嫌だ」という人が線引きを変えたのがどこなのか?という点だ。
一億総潔癖症時代の到来で、「手作りの料理を食べたいと思える人」の線引きがシビアになったのか。
それとも職場の同僚やママ友が踏み込んできてほしくない相手に変わってきているのか。

そのどちらなのかによって、この「他人のおにぎり問題」は全く別の社会問題になる。
「他人のおにぎりが嫌だ」という人は一度立ち止まって考えてほしい。

他人のおにぎりの何が嫌なのだろう?
彼または彼女は他人と位置付ける事が本当に適切な相手だろうか?

「おにぎり」という卑近な単語で問題の本質を有耶無耶にしてはいないだろうか?
キャッチーなタイトルで人目を引くのはマスメディアの常套手段である。
「パーソナルスペースの変化による同僚や姻戚との距離感の問題」というより「他人のおにぎり問題」といったほうが軽く聞こえる。
しかし、食事は「衣食住」の中ですら最上位、そんな軽いものではない。
おにぎりの向こう側にある自分の心を今一度見つめなおすべきだ。
その時、おにぎりとお茶で気の置けない人と語り合うのもいいだろう。
この問題はネットで語り合うのではなく、対面で人と語り合ってほしい。
それも、食べ物を前にして。

おにぎりを誰と食べたいか?
その相手の健康や好みを考えると具は何が良いだろう?
合わせるお茶の種類や温度は何が好みだっただろうか。
考えている時、わくわくして幸せな気分になってくるだろう。

その相手の握ったおにぎりは食べたいと思える筈だ。
その人のおにぎりを食べたいと思える人に囲まれて生きる事は幸せなことである。
おにぎりという身近な家庭料理は、心を覗き込むためのフィルターとして案外に優秀である。
当コラムを書いていて筆者も母の作った牛肉の時雨煮の入ったおにぎりが食べたくなった。
私が作っても同じ味にならない、これでもかと生姜の入った母の時雨煮である。
それでは、母に時雨煮をねだりに行くとしよう。





文:朽葉矢子

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プロフィール

朽葉

Author:朽葉
このページの管理者、朽葉。
とにかく生のステージが好き。
お笑いメインに、芝居、宝塚と西へ東へ。

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